「義」のひと、コールハース――クライストを観る/読む(その1)



   「感情を宿す胸はすべて謎」 ――クライスト「ペンテジレーア」


 ミヒャエル・コールハースの映画がwowowシネマで放映された。タイトルは『バトル・オブ・ライジング コールハースの戦い』(2013)、日本劇場未公開である。
 仏独合作で、監督はアルノー・ドゥ・パリエール。この監督の作品を観るのは初めて(日本公開の作品はないようだ)。コールハースを演じたのは、TVシリーズ『ハンニバル』(2012)*1ハンニバル・レクターを演じて強烈な印象を残した名優マッツ・ミケルセンブルーノ・ガンツも顔を見せる)。
 タイトルから想像されるようなアクション映画ではなく、コールハースの「義」のための戦いが、みごとな照明・カメラワークのもと、坦々と描かれる(TV画面で観ると暗部がつぶれてしまうのが残念)。ミケルセンの抑制された演技とともに、端正で緊密な構成のギリシャ悲劇を思わせる佳作。昨年のカンヌ映画祭コンペティションに出品されたが、受賞には至らなかったそうだ。英語版サイト*2のトレーラーに、”An Old-Fashioned Robin Hood-Style Revenge Tale” という「ハリウッド・リポーター」の評が映し出される。クライストの原作小説は19世紀初頭の刊行、16世紀に実在した人物に関する古記録をもとにした創作である。
 ハインリヒ・フォン・クライストは34歳で拳銃自殺(不治の病の人妻と心中)を遂げたので、遺された作品はそれほど多くない。戯曲と小説それぞれ8篇、それに詩と散文がほぼすべての業績である。戯曲では「こわれ甕」が有名で、いくつかの世界文学全集に邦訳が収録されており、小説は「ミヒャエル・コールハース」と「O侯爵夫人」(エリック・ロメールが映画化した)の中篇2篇をのぞく6篇が種村季弘訳で1冊にまとまっている(『チリの地震河出文庫、1996)*3。全貌を知るには全3巻の邦訳版全集(佐藤恵三訳、沖積舎)がある。
 クライストの小説「ミヒャエル・コールハース」について、そのあらましを書いておこう。邦訳のテキストは『ミヒャエル・コールハースの運命』(吉田次郎訳、岩波文庫)。


 16世紀の中葉、神聖ローマ帝国ブランデンブルクのコールハーゼンブリュックという地に、ミヒャエル・コールハースという博労(牛馬の仲介人)とその家族が住んでいた。コールハースはよく肥えてつやのよい馬を連れて、大きな見本市の立つライプツィヒへと従者とともに出かけた。国境を接するサクソニア(ザクセン)領に差し掛かると、通いなれた道が通行止めになっている。関守にわけを尋ねると、先代の領主は亡くなり、あらたに着任したウェンツェルという公子が関所を設けたので、通行証がなければ通さないという。コールハースは城へおもむき、通行証が必要ならドレスデンで発行してもらうので、今日のところは通してもらいたいとウェンツェル公子に談判すると、馬を抵当に置いて行けという。争うのは得策でないと思ったコールハースは、黒馬二頭と従者を置いて市をめざして出発した。
 当時のドイツ、神聖ローマ帝国は大小三百余の国に分裂しており、ブランデンブルクもサクソニア(ザクセン)も選帝候(ドイツ王に対する選挙権を持つ諸侯)国のひとつだった。江戸時代の諸藩にやや似た、それぞれが自治権をもつ独立した国である。
 ずっとのちの時代、1806年にライン同盟が結成されるのだが、この「ミヒャエル・コールハース」(1808〜1810年成立)という小説には、アンチ・ナポレオンの愛国運動に身を挺していたクライスト(ナポレオン暗殺を企てたという)のイデオロギー――ライン同盟に加盟したサクソニア王家への「憎悪と軽蔑」――が反映している、というのが岩波文庫版訳者吉田次郎の見立て(「あとがき」)である。
 さて、ドレスデンで「通行証」など根も葉もない作り話であると聞いたコールハースが見本市から戻ると、抵当に預けた二頭の黒馬は農作業に使役されて傷つき痩せさらばえ、従者は暴行をうけて城を追い出されていた。コールハースは公子に「これは私の馬ではない、元の色つやのよい肥えた馬にもどしてくれ」と抗議するが、公子は取り合わない。怒ったコールハースはウェンツェル公子の無法を法廷に提訴するが、公子と通じていたサクソニアの法廷は訴えを却下した。かくなるうえは選帝候に直訴するしかないと決意し、地所を処分し、妻子を縁戚のところへやろうとするコールハース(ちょっと大石内蔵助の「山科の別れ」を思わせる)。妻は夫の強い意志を知って、嘆願書は自分が宮廷へ届けると旅立つ。だが、数日後、妻は致命的な傷を負って運ばれ、やがて息を引き取った。追って届いた選帝候の決裁は、痩せた馬を引き取って、今後二度と請願することはまかりならぬ、という理不尽なものだった。コールハースは妻を埋葬すると、一通の判決文を書き綴る。
 「余は生得の権利によつて公子ウェンツェル・フォン・トロンカを断罪する、汝は余の手より奪ひ取り畑仕事によつて滅ぼした黒馬を書状一覧後三日以内にコールハーゼンブリュックに連れ来り、自ら厩に於て餌を与へて肥すべし」
 書状を騎馬の飛脚に託して三日、音沙汰のないのを見届けたコールハースは立ち上がる。武装した「黄金のやうに忠実な」7人の下僕とともに、ウェンツェルの居住する城をめざして。
 コールハースの「戦い」の幕開き。ジョン・バダムが西部劇に翻案したというのも肯ける*4
 城に火を放ちウェンツェル公子の手勢を殺戮する荒野の7人。しかし、めざす公子の姿は見当たらない。小説では、7人の侍がやがて大軍勢に膨れ上がり、ウェンツェルを匿ったものは同罪だ、と近隣の町や村に火を放つ。ここにいたって、もはや個=孤の戦いは大きく逸脱し、コールハースは自らを「この争ひに公子の味方をするすべての者に向つて、全世界が陥れる奸悪を火と剣とを以て罰すべく降臨せる首天使ミヒャエルの代行者」とまで僭称する。復讐するは我にあり、われこそ大天使ミカエルの身替りなればなり、と大見えを切ったわけである。むろん、選帝候も座して反乱を眺めていたわけではない。「二千の軍勢を集結してコールハースを捕へるべく自ら先頭に立つであらうと宣言」した。
 コールハースの義のための戦いがここまで膨れ上がったのは、サクソニア選帝候に不満をもつ農民がそれだけ多かったことの表われである。68年の学生の叛乱もパリ五月革命も、発端は公正を求めるささやかな異議申し立てだった。映画では、コールハースの個の戦いを際立たせるため、軍勢は多くて2、30、村々に火をかける残虐な場面はない。わずかに、農家に押し入って略奪した手勢のひとりをコールハースが処罰する場面があるのみ。映画のコールハースは、あくまで「義のひと」なのである。


 物語はここでひとつの転回点を迎える。マルティン・ルターがこの争いに介入するのである。映画に印象的な場面があった。ひとり静かに読書をしているコールハースに従者が尋ねる。何をお読みですか。聖書だ。だがこれはラテン語で書かれたものではない――。ルターのドイツ語聖書である。この仏独合作映画は全篇フランス語で語られるが、それってどうなんだろう、と思わないでもない。ミヒャエル・コールハースはむろんミッシェルである。
 ルターはコールハースに向けて布告を発する。「汝は逆徒にして正義の神の戦士にあらざるぞ」と。そもそもルターという男は宗教改革では、カトリックの腐敗した司教どもと武器をもって戦えとあれほど煽動したにもかかわらず、手のひらを返して農民を裏切った。サクソニア選帝候に庇護され、市民や貴族にすりよっていった反動的なやつなのである。エンゲルスが『ドイツ農民戦争』で書いている如し。
 ともあれ、コールハースは私淑するルターと面談する。ルターはいう。主の教えに従い汝の敵を赦せ、と。コールハースは応える。仰せのとおり、私は私に仇なす者たちすべてを赦しましょう、ただし、法律による公子の処罰と、私の黒馬二頭を元通り肥え太らせて戻すこと、そして傷害を受けた下僕にたいする賠償と、これだけは断じて譲れません、と。コールハースが要求するのは、どこまでも「公正」なのである。
 ルターはコールハースの決意の固いことを知り、選帝候との交渉を約す。すなわち、訴訟の再開とコールハース大赦をうながす書簡を選帝候に送ったのである。三たび火を放たれたウィッテンベルクの人民でさえコールハースを支持しているのだから、と。


 ここまでで、『ミヒャエル・コールハースの運命』一巻のほぼ半分。あらすじをまとめるのも骨が折れる。乗りかかった舟で途中で降りるわけにもゆかないし、映画についても、それに大江健三郎の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』についても、書きたいことがなくもない。というわけで、つづきは次回に持ち越したい。



ミヒャエル・コールハースの運命―或る古記録より (岩波文庫)

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チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)

チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)

*1:ハンニバル』シーズン1がスター・チャンネルで放映された。これを観るためだけに、わたしは期間限定でスター・チャンネルと契約した。

*2:http://www.musicboxfilms.com/age-of-uprising--the-legend-of-michael-kohlhaas-movies-78.php

*3:良守峯訳・岩波文庫版では同じく6篇+「O侯爵夫人」の7篇が収録されている。

*4:『ジャック・ブル』1999年、TVM、ジョン・キューザック主演