1Q84的世界のなりたち



    「するときみは次がどうなるか知りたくて本を読むわけだね?」
    「ほかに本を読む理由なんて、ないのとちがうっけ?」
                        ――ジョン・アーヴィングガープの世界』 


 『群像』8月号を図書館で借りて来た。月刊誌はひと月たつと館外へ貸し出してくれるのである。<ムラカミハルキを10倍楽しむ>という特集(文藝誌にしてはネーミングがイマ風だね。むろんX年ほど遅れた「イマ」だけれども)に、「村上春樹1Q84』をとことん読む」という座談会が載っている。出席者は、安藤礼二苅部直諏訪哲史松永美穂の諸氏。批評家、学者、小説家、外国文学者とジャンル分けにも気配りが行き届いている。座談会の日付は6月21日、この2巻1000ページほどの本が出てからまだひと月もたっていない頃に行われたわけで、出席された方々も御苦労なことだ。
 座談会では、折口信夫源氏物語論を参照しながら、源氏物語と『1Q84』の構造の類似を指摘した安藤礼二の発言が面白かった。源氏には三つの層があり、第一は物の怪の層、第二は光源氏貴種流離譚としての王の層、第三は王と結ばれ王を甦らせる紫の上の少女の層であるというのが折口説で、安藤は、


 「「ボーイ・ミーツ・ガール」小説の起源であり、しかもこれ、そのまま『1Q84』の構造でしょう。リトル・ピープルが物の怪の層、そして次代の王となる天吾の層と旧世代の王を殺す青豆の層、『死者の書』では、少女が蓮の茎から糸を紡いで曼荼羅を折るんですが、その曼荼羅は「衾」にして「衣」だと書かれている。天皇に被せて復活させるものなんです。」


と語っている。じっさい作中で新興宗教の教祖の口からフレイザーの『金枝篇』について語られもするし、源氏物語にかぎらず大きな神話的物語の枠組みを『1Q84』もまた反復しているのはまちがいないだろう。折口信夫の『死者の書』のみならず、Book of the Dead、イシスとオシリスの伝説の遥かな余響も聞こえてこよう。
 この座談会でいちばん感心したのは、カバーの装画にNASAの月の写真が使われているという安藤礼二の指摘で、BOOK1が黄色い月、BOOK2が青い月になっている。他の三人も虚を衝かれたようにいっせいに「ほおー」と感心しているのがおかしい。わたしも書店のカバーをつけたままで装丁をよく見てなかったので気づかなかった。さすが新潮社装幀室。
 特集ではもう一本、小山鉄郎の「温かい日本茶を飲むまでに」という評論が掲載されている。ぜんたいに小説を現実世界に引きつけすぎて解釈している点に興ざめした。上述の教祖についても「この麻原彰晃ふうの人物は実は麻原彰晃そのままではないのだろう」って、素朴にもほどがある。イメージとしてはむしろマーロン・ブランドではないのかね。緑色の月を「これは青豆(グリーンピース)が二十年、心に愛を抱き続けるうちに苔むして、青豆の色で緑色になったのだろう。グリーンピース(green peas)を辞書で引くと「pea」は「愛や幸運の象徴」とある」と書いている。引くなよ、辞書。
 村上春樹は読売新聞のインタビューで居酒屋のメニューにあった「青豆とうふ」から取ったと答えていて*1、英訳されてもGreen peasにはならないだろうが、Little mountain氏の念力説には恐れ入った。英訳されると、ハードカバーのジャケットには、Raymond Chandler meets Edgar Allan Poeと書かれるかもしれない。チャンドラーの文体で書かれた「大鴉」。カラスはたしか三度やってきたはずだ(『海辺のカフカ』との関連は、たぶんないだろう)。
 あるいは、ジョン・アーヴィング。『1Q84』では「世界のなりたち」という言葉が二、三度、印象的に語られる。The World According to Garp、邦訳が出る前に村上春樹はアーヴィングのこの小説を『ガープ的世界のなりたち』と訳していた。二つの小説のいずれも小説家が主人公であるといった共通性だけでなく、アーヴィング的世界には村上春樹的世界との少なからぬ類似点がある。村上はかつてアーヴィングについてこう書いたことがある。


 「(アーヴィングの小説の特徴は)リアリズム対反リアリズムという古典的図式の形骸化である。つまりアーヴィングの小説の目的は主体性の崩壊とそれに伴う小説言語の解体を踏まえながら、小説的位相を確立することによってその位相内における登場人物に「必然性」あるいは「宿命性」といういわば最も原初的なアイデンティティーを与えることにある。(略)彼の武器は読み易い文章、ユーモア、徹底したストーリー性、奇妙なメタファーである。それが大衆にアピールし、また同時に純文学筋の評論家から嫌われる原因にもなる。」
 「アーヴィングの小説をとおして、我々は現代とは何かという迷路のごとき命題にはまりこむことになる。つまりリアリズム⇔反リアリズムという図式の形骸化という極めて現代的な作業の行く先が実は現代小説の有していた現代性の拒否であるというパラドックスである。アーヴィングはこのパラドックスを理論的にというよりは極めて本能的に処理している、ということができるだろう。そしてそのコンセプトの確立が『ガープ的世界のなりたち』であったのだ。」*2


 「アーヴィングの小説の現代性は」と村上は書く。「いわば反現代、反現代小説としての現代性である」と。「ヴォネガットが現代小説の装飾物を次々に捨て去り、寓話性に到達した場所からアーヴィングは出発したと見ることもできるだろう」と。
 ヴォネガットの到達した場所から出発(『風の歌を聴け』)した村上がアーヴィングに深甚なる共感を寄せるのは当然といえるだろう。アーヴィングが用いるポップ・メタファーは、「ストーリーを展開させるための標識(ランドマーク)にすぎない」と村上はいう。「しかしその標識には必然性あるいは宿命性がなければならない。――それがアーヴィングの方法意識である」と。むろん村上がふんだんに用いるポップ・メタファーもまた同断である。
 村上は、自ら翻訳したアーヴィングの『熊を放つ』における「アーヴィング的コンセプト」を「巧みなストーリー・テリング/誇張されたキャラクターと状況の設定/意外な(あるいは想像を絶した)展開/複雑な(あるいは単純すぎるが故に複雑な)メタファー/グロテスクともいえる特異なユーモア感覚/感情移入を抑制したシンプルな文章/プロローグとエピローグに対する執着」(これらの多くは村上的コンセプトともいえるだろう)と列挙したのちこう続ける。「ひとことでまとめればアーヴィングの指向するものはある種の「綜合」としての小説である。それは断片の集積である以前に綜合であり、彼の小説におけるあらゆるメタファーはその「綜合」に到達するべく宿命的に位置づけられている。何ものもその宿命から逃れることはできない」。
 先述した読売新聞のインタビューで語っていた「新しいリアリズム」の小説、「この時代の世相全体を立体的に描く僕なりの「総合小説」を書きたかった」という言葉とも符合するだろう。1Q84的世界が寓話としてでなく奇妙なリアリティをもって読者の脳裡に印象づけられるとすれば、われわれも「空気さなぎ」のなかにすでに取り込まれてしまっているのかもしれない。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

*1:http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm

*2:「反現代であることの現代性――ジョン・アーヴィングの小説をめぐって」、『海』1982年2月号所載