レッシング・レゲンデ
吉本隆明インタビューのDVDが届いた。「吉本隆明語る 思想を生きる」。京都精華大学創立40周年記念事業として作成されたもので、聞き手は同大学名誉教授の笠原芳光、webで申し込めば無償で送ってくれる。インタビューは2008年12月。今年の1月にNHKで放映された講演とそうかわらない時期だから、ことばも幾分か覚束なくなっている頃のものだ。1時間ほどのインタビューで、60年安保の頃などを回顧した内容それじたいに特に目新しいものはない。
ただひとつ、1960年頃、京都精華大学初代学長の岡本清一と平野謙のふたりが、思想的立場をこえて自分(たち)に好意を寄せてくれているのを感じた、それが支えとなっていた、と吉本が述懐しているのにおやと思った。岡本清一に『自由の思想』(岩波新書)という著書があるが未読であり、どういう人であるか知らない。もうひとりに平野謙の名があがったことにやや意外な念いを抱いた。笠原芳光も、吉本がそのふたりの名をならべて語るのを初めて聞いたと述べているが、平野には興味をしめさず岡本清一のほうへ話を進めている。笠原は、岡本清一が2001年に95歳でなくなった折りに、吉本からきた弔電に感銘を受けたと電文を読み上げる。
「岡本清一先生ご逝去の知らせを受け取り悲しみに堪えません。1960年このかたどんな孤立と孤独のときでも先生の好意にあふれたぬくもりに支えられて、私も友達も励まされてきました。先生の隠されたまなざしのぬくもりは生涯に初めての体験だったと思い、悲しみと感謝をあたらしくしております」
安保闘争後の吉本の孤立はしらないわけではない。むろん書物をつうじてだが。のちに埴谷雄高と大岡昇平が『二つの同時代史』という漫談を出版したさいに、吉本が自分を揶揄するいっけん些細と思える戯れ言を看過することができずに、内容証明付きの訂正要望書をふたりと出版社宛てに送ったのもその孤立と深いかかわりがあるはずだ。安保闘争に高みの見物を決め込んでいたやつらが何をしゃらくさいことを吐かすかと思ったはずだが、吉本の要望書は委曲情理を尽したこのうえない鄭重な文面だった。その文面がかれの孤立の深さをきわだたせていた。
吉本といえば、ある詩を思い出す。エーリヒ・ケストナーの「レッシング」という詩。
レッシング
彼の書いたものは、ときどき詩だった。
書こうと思って、詩を書いたのではない。
目標はなかった。方向を見つけたのだ。
彼は、男だった。天才ではなかった。
辮髪の時代に彼は生きた。
彼もまた辮髪だった。
以来、多くの頭が登場した。が、
彼のような頭は、二度と現われなかった。
彼は、男だった。並ぶ者なき男だった。
サーベルを振りまわさず、
言葉で敵をなぎ倒し、
逆らう者は、ひとりもなかった。
彼は、ひとりだった。堂々と戦い、
時代に風穴をあけた。
勇敢で、ひとりであることほど、
この世で危険なことはない!
(丘沢静也訳)
吉本は、かれの初期詩篇を「詩」であるといわなかった。胸のうちにあるものを吐き出しただけだ、とどこかで語っていた。「書こうと思って、詩を書いたのではない」とでもいうように。「彼は、ひとりだった。堂々と戦い、時代に風穴をあけた」。そして、けして孤立を怖れなかった。この詩の最後の二行は、きわめて両義的だ。ケストナーの意図がどうであれ。「勇敢で、ひとりであることほど、この世で危険なことはない!」
インタビューの途中に、吉本の書斎が写しだされた。書棚。漱石の写真。視力検査表。ピンナップガールのヌード写真。床で背を丸めてわらべ唄のような御詠歌のような自作の歌を口ずさみながら一心に猫をあやす吉本の後姿――。
人はいつも孤として存在しているのだ、とその後姿が語っているように思った。