文体の人、橋本治


 紀伊國屋書店が出している「scripta」で、斎藤美奈子橋本治の『桃尻娘』について書いている(連載「中古典ノスヽメ」第8回)。これはネットで読むことができる*1


 《『桃尻娘』は「小説現代新人賞」の佳作に入選した(受賞作ではなかったのだ)、橋本治、二九歳のデビュー作である。単行本の形で出版されたのは一九七八年。この小説が何より衝撃的だったのは、全編これ、女子高生の喋り言葉で書かれていたことだろう。書き出しから、この飛ばし方である。

 〈大きな声じゃ言えないけど、あたし、この頃お酒っておいしいなって思うの。黙っててよ、一応ヤバイんだから〉、〈官能の極致、なーンちゃって、うっかりすると止められなくなっちゃうワ。どうしよう、アル中なんかになっちゃったら。ウーッ、おぞましい。やだわ、女のアル中なんか〉

 三〇年前には「ぶっとんでいる」と感じた桃尻語(とはこういう言葉づかいのこと)も、しかしいまとなっては十分「女のコらしく」見える。ギャルという言葉(概念)などなかった時代だ。日本語が変化するスピードはかくも激しいのである。》


 斎藤美奈子のいうように、いまの女子高生の喋り言葉と較べると、むしろ大人しいと感じるかもしれない。だが、30年前には充分衝撃的だったのである。斎藤はつづけて、こう書く。


 《とはいえ『桃尻娘』がほんとの意味で驚異的だったのは、女子高生語(桃尻語)で小説を書いてしまったことではなく、こうしてはじまった物語が、いつしか増殖し、結果的にはとんでもない大作に成長してしまったことだろう。

 当初、短編小説として書かれた「桃尻娘」には「一年C組三十四番 榊原玲奈」というクレジットがついていた。女子高生の言葉で小説を書くには「語り手は高校一年の女子である」と読者に断る必要があったのだ。》


 橋本治はこの後えんえんと「桃尻娘」シリーズを書き継ぎ、「全六巻、一二年に渡ってこの物語は書き続けられたことになる」のは周知のとおりである。だが、「『桃尻娘』がほんとの意味で驚異的だったのは」、物語が「とんでもない大作に成長してしまったこと」ではない。そうではなく、まさしく(斎藤美奈子が否定している)「女子高生語(桃尻語)で小説を書いてしまったこと」でなければならない。30年前に衝撃的だったのは橋本治の文体であったといわなければならない。小説現代の銓衡委員のなかでこの文体の新しさを評価できたのは、おなじく文体の人、野坂昭如ただひとりだった。そう、橋本治は文体の人なのである。


 《青春大河小説とも称される「桃尻娘」シリーズの特徴は「ウルトラスーパー・くそリアリズム小説」だったことだろう。第一にはあまりにリアルなその語り口において、第二にはあまりに日常性に根ざした物語内容においてである(出てくる大学名などもすべて実名)。》


 斎藤美奈子がいう「リアルな語り口」とはなにか。女子高生の話す言葉を「リアル」に写したという意味だとしたら、そこにこの小説の美質があるわけではない。そもそも女子高生の話す言葉を「リアル」に写したところで、それは文学ではない。「桃尻娘」が女子高生の話す言葉を「リアル」に写したように見えるとしたら、それは橋本治の文体の力にほかならない。虚構の物語のなかで女子高生が話す言葉を、あたかも現実の女子高生の話し言葉を「リアル」に写したかのように感じさせる、それが文体の力である(敢えていうなら、当時の現実の女子高生――とはいったい誰か――は決してこういう話し方をしてはいなかったろう。これは橋本治の創造した「桃尻語」である)。


 《〈本当にサア、高校生なんか悲劇だよなア〉(「無花果少年」)とボヤく磯村薫は、薫という名前からも推測される通り、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』の主人公を思わせる、そこそこ優等生の美少年。》


 斎藤美奈子はこう書きながら、もうひとりの文体の人、庄司薫にそれ以上言及することはない。「桃尻娘」のおよそ十年前に三十二歳で再デビューした同窓の小説家が書いたコロキアルな一人称小説を橋本治が意識しなかったはずはない。庄司薫も男子高校生(浪人生)の言葉で小説を書くには語り手と同じペンネームにする必要があったのだし、『赤頭巾ちゃん気をつけて』が「あまりに日常性に根ざした物語(出てくる大学名などもすべて実名)」であったことはいうまでもない。庄司薫が男子高校生の話し言葉なら自分は女子高校生の話し言葉で書いてみせると橋本治が思ったとしても不思議はない。橋本治がえんえんと「桃尻娘」シリーズを書き継いだのは、こうして手に入れた文体を心ゆくまで使ってみたかったからだろう。

   *


 橋本治が近作『橋』で達成した文体もめざましい。
 1980年から現代にいたる30年の日本人の精神史を唯物論的に叙述した物語において橋本治が採用した文体は叙事的ナラタージュとでもいうべきもので、読者はタブローのなかで展開する物語をあたかも映画や演劇を見るように一定の距離をおいて見守ることになる。
 ふたりの少女の成長の物語。ふたりは物語の結末でともに「悲劇」的な局面を迎えることになるが、それはこの時代に日本のある地方都市に生を享けたふたりにとって辿らざるを得ない必然のなりゆきである。むろんこの時代の地方都市に生れた誰もが「悲劇」的な局面を迎えるわけではない。だが、この時代のこの場所に生まれなければふたりにあるいは別の人生があったかもしれないという意味で、それは必然といわざるをえない。それが唯物論的の謂いである。ふたりの少女の物語はまたふたりの母親の物語でもある。それが精神史の謂いである。


 《どちらの母親も、あらぬ方を見ている。自分の生きる現実の向うにあるはずの、「自分自身の幸福」というあてどのない夢。それを許すように日本の社会は豊かで、しかし、あてどのないものを抱えなければ生きて行けないほどに、豊かな者は貧しかった。
 なんであれ、母親達は夢を見ている。夢かどうかは分からないが、あらぬ方を見ている――自分の中に「寂寥」を発見した時、娘達はそのことに気づく。気づいてしかし、それを改めて否定しなければならない。娘達にとって、自分の前に存在する母親は、動かしようのない「現実」だからだ。
 「お母さんは、私のために存在してくれている」――娘達はそう思いたい。そしてそう思う時、娘達は多かれ少なかれ、不幸な状況に立たされている。だからこそ、そのことを口に出来ない。それを口にすることは、最後の拠り処となる母親のあり方を疑うことになるからだ。だから娘達は、黙って母親から与えられた指針に従う。
 「両親の生活の邪魔にならないように、自立の道を歩め」――黙ってそのように方向付けられた田村雅美は、黙々と雨の道を歩む。その不満を、不思議な形でぶつけながら。
 「母親の指し示す方向へ素直に進め」と言われた大川ちひろは、黙って雨の中、母親の運転する車に乗り込む。
 二人の娘がその先にどうなるのかは、まだ誰にも知りようのない一九八一年だった。》


 ふたりの少女にほかの選択肢はなかった。紋切型の表現をあえて使えば、ふたりは運命の糸に操られるようにゆっくりと破滅への道を歩んでゆく。
 避けることのできない運命であるゆえ、それは悲劇的なのである。

橋