3ヶ月ほど前に書いた「図書」の斎藤美奈子の連載「文庫解説を読む」*1、12月号の第5回では村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』(ハヤカワ文庫)を取り上げている。斎藤は、『ロング・グッドバイ』は『グレート・ギャツビー』を下敷きにしているという村上の訳者解説に意表を突かれたという。なにが斎藤を驚かせたのか。
村上は、『ロング・グッドバイ』のフィリップ・マーロウとテリー・レノックスとの関係が、『グレート・ギャツビー』におけるニック・キャラウェイとジェイ・ギャツビーとの関係に重なるとして、この二つの物語は「本当の意味での魂の交流の物語であり、人と人との自発的な相互理解の物語であり、人の抱く美しい幻想と、それがいやおうなくもたらすことになる深い幻滅の物語なのだ」と書いている。斎藤は上記の箇所を引用して「こういう解説を読むと、村上春樹はやはり作家で、明言を避けるのだなあという感想を持つ」と述べる。作家というものは明言を避けるものだ、という断定が妥当かどうかはともあれ、「人と人との自発的な相互理解」は「男と男の」と読み換えるべきであり、これは「男同士の恋愛小説」である、村上は明言を避けているけれども要するにそういうことでしょ、というわけである。
そして話は当然のごとく「ゲイ小説」へと移行し、『ゲイ短編小説集』(平凡社ライブラリー)の大橋洋一の解説に言及し(斎藤はこの解説に「完全に『やられた!』と感じた」、という)、メルヴィルの『白鯨』もゲイ小説として読まれるべきだという展開になる。
斎藤が村上の解説に「意表を突かれた」というのはむろんレトリックであって、『ロング・グッドバイ』も『グレート・ギャツビー』もゲイ小説、とまではいわなくても、「屈折した恋愛感情=ホモエロティシズム」を描いた小説である、ぐらいは言ってよね、じれったいわねえ、といいたいのだろう。
文学史上の作品(または正典)を、ゲイ小説もしくはレズビアン小説としてリリーディングするのは、昨今のアメリカの大学の文学研究では珍しくはない。日本ではまだそれほど目立っていないように思われるのは大学の研究組織ともかかわりがあるのだろう。論文発表も人間関係と無縁ではないからね。
『ゲイ短編小説集』は「英米系のゲイ文学として定評のあるもの」を選んだと大橋洋一が解説に書いているように、ワイルドやフォスターなどの作品が選ばれているが、そのなかに、D・H・ロレンスの「プロシア士官」が収録されている。「プロシア士官」は「ゲイ文学としての定評」があるのかしらん。むろんゲイ小説として読むことは可能なのだけれど、この作品にはなにかもっと過剰なものがあるようなのだ。
「将校が若くてたくましい兵卒に対して同性愛感情を抱き、悲劇的な結末をまねくこの物語は、同性愛嫌悪(ホモフォビア)を隠そうとしてはいない」と大橋洋一は「プロシア士官」について書いている。そして、軍隊内の階級差だけでなく「現実社会の階級差」(貴族と下層階級)も加わって、「頽廃的で『変態的』な貴族が、生気みなぎる自然児たる若者をサディスティックな欲望からいたぶり息の根を止めにかかる」物語であり、「敵国ドイツの軍隊の倒錯的行為をあらわにするきわめてナショナリスティックなイデオロギーを表明している」と論じる。さらに、「軍隊における同性愛関係」の「いまわし」さを描いたものとして、作者ロレンスの「同性愛嫌悪」も指弾される。にもかかわらず、ロレンスにあっては、その「嫌悪の眼差しが羨望と魅惑の眼差しに融合している」ところにその文学の特異性を見る、というのが大橋洋一の説である。
だが、これは軍隊内の「いまわしい」同性愛関係を描いたものなのだろうか。こうした大橋の見方に異を唱えるのがロレンス研究者の井上義夫である。井上は「「プロシア士官」論」で、こう書く。
「この小説をめぐってしばしばなされる議論、すなわち大尉と従卒に性的倒錯が認められるか否かという議論は、作中人物にドイツ民族の精神の歪みを見出す立場とは正反対の立場に立脚するように見えながら、作品に或る外的な尺度を当てがう点では同一の水準にある。言うまでもなく、精神分析学を文学作品に適用するわけであるが、この方法もまた、作品を作家の内的な発展の一過程、内的葛藤を脱する一契機と見ないために、もっともらしい箇所に注目し、一見したところ妥当性のある部分的説明を提示するにとどまる。なるほど大尉と従卒は、互いに常軌を逸した残虐な振舞いに及ぶ。その行為は、愛着と憎悪の未だ混沌とした自己の感情の本質を、兇暴な行為により外在化させて確かめたいという願望に由来している。しかし作中人物の心理や欲望の歪みは、それ自体では緻密に構成されたこの小説の構造とその主題を明らかにすることがない。というのもこの短篇小説は、おそらく誰の目にも明らかなように、日常生活や個人の心理とは隔絶した次元で構想された、メタフィジカルな小説だからである。」*2
社会学的な読み方、精神分析学的な読み方、あるいはフェミニズム的な読み方、いずれにせよそれらは「外的な尺度」を持ち込んで作品を裁断する方法であるとして井上は斥ける。では、どういう読み方があるのか。いうまでもなくclose readingである。原文の一節一節に付き随いながら作品のディテールを丁寧に読み解いてゆく井上の行文をここでトレースする余裕はない。トレースしようとするなら、上掲の引用のように全文を書き写さなければならないからである。
この、謎にみちた、観念的な、それでいて読む者を引き付けずにいない小説の主題を一言でいうとすれば、生と死の存在論ということになるだろう。井上の読解によれば、大尉は「死」を象徴し、従卒は「生」を象徴する。「無意識の内に牽かれつつも反撥し合う奇妙な関係」は「「死」が徐々に「生」を呑んでゆく過程であり、大尉の殺害と時を同じくして従卒の生が終わったのは、従卒と大尉が本来的に同一のものであるからに他ならない」。
井上はロレンスの『白い孔雀』のレティの科白を援用して、「生を生として燃え立たせるものは生に内在する生命力」ではなく「死の権能が、大いなる燃焼に向かって生を駆り立てる」のである、という。
同様の視点から「プロシア士官」を論じたのが翻訳家の宮脇孝雄である。
宮脇はD・H・ロレンスを「ひょっとしたらすごい作家ではないか、と思いはじめたのは、「プロシア士官」という短篇を読んでからだった」と書く(「謎解きの魅力を持つ永遠の問題作」。以前はアルクのサイトで読むことができたが、いまはもう削除されリンク切れになっている)。ヘミングウェイが『移動祝祭日』で「プロシア士官」が面白かった、と述べていて興味を持ったのだという。
プロシア貴族出身の士官(大尉)と従卒は、最初のうちは言葉をかわさない。だが、「従卒の手に傷があったのをきっかけにして、話をするようになる。その日から士官は従卒のことが気になって、虐待を始める。相手の存在が気になる。だから虐待をする、というのはかなりの飛躍で、人によってはここで読むのをやめるかもしれない」と宮脇は書いているけれども、ここはそれほど「飛躍」というわけではないだろう。相手が気になる(あるいは好きだ)から気を惹きたくていじめる、というのはよくあるパターンである。いじめに耐えられず相手を殺してしまうというケースもあるが、この小説はそれほど単純な話ではない。
その従卒の大尉殺害の場面を、宮脇は英語原文と訳文によって示している。ここでは、宮脇による訳文を引用しよう。
「ゆっくり彼は起き上がった。相手の体は痙攣し、手脚を伸ばし、動かなくなった。彼は立ち上がり、黙ってそれを見た。『それ』が壊れてしまったのは残念だった。それは彼を足蹴にし、虐待してきた物よりも大きな存在を象徴していた。彼はその目を見るのが怖かった。今やそれは忌まわしく、白目しか見えていなかったし、しかもその白目には血が流れ込んでいた。従卒の顔は自分が見たものの恐怖にこわばった。そう、それはそのとおり。心の中で彼は満足していた。彼は大尉の顔を憎んでいた。それはもう消滅した。従卒の魂には深い安堵があった。それはそうでなければならなかった。しかし、彼は、軍人の体が木の根もとに長々と壊れて横たわり、美しい指を曲げているのを見ることに耐えられなかった。彼はそれを隠したかった」
ここで奇妙に感じるのは「それ」という代名詞である。ふつうは「彼」だろうが、もう死んでモノになってしまったので「それ」と称しているのだろうか。それにしても、「虐待してきた物よりも大きな存在を象徴していた」とは何を意味するのか。宮脇はこう解釈する。
「この小説にはときどき謎めいた表現が出てきて、それがかえって魅力になっているが、「それは彼を足蹴にし、虐待してきた物よりも大きな存在を象徴していた(It represented more than the thing which had kicked and bullied him.)」というのも不思議なところである。「それ」というのは士官のことだが、「人」ではなく「物(the thing)」という単語で受けている。こういう箇所は、「さあ、考えてみてくれ」という作者からのメッセージである。そこで、自分なりに考えてみたが、「彼を足蹴にし、虐待してきた物よりも大きな存在」とは、たぶん「死」のことだろう。士官は「死」を象徴していたのである。
とすると、従卒は「生」の象徴で、彼は「死」を殺したのである。「死」を殺したのなら永遠の生が得られるかというと、そうではなく、彼は衰弱して死んでしまう。つまり、「生」と「死」は対立するものではなく、「死」の中に「生」があり、「生」の中に「死」があって、たがいに依存しあっているものだと作者は考えているのだろう。だから従卒は自分の行為に「満足」しながら、美しい死が壊れてしまったことに「耐えられなかった」のである。」
宮脇は「士官と従卒の関係を表向きは「ゲイ」と解釈することもできるわけで、そう思うと興味は尽きない」と、大橋的視点にも一定の理解を示しているけれども、それだけではどうにも解釈できないものがこの作品にはあるといいたいのだろう。クイア・リーディング(ゲイ的視点)にせよ精神分析学的解釈(エロスとタナトスの相克)にせよ作家論的解読(ロレンスの他の作品との比較分析)にせよ、手持ちの方法論・概念を総動員しないことにはこの作品はとうてい理解できない。
冒頭にもどると、『ロング・グッドバイ』と『グレート・ギャツビー』のふたりの関係を「屈折した恋愛感情=ホモエロティシズム」とのみ解釈するのは、同様に、一面的な見方にすぎないことがわかるだろう。村上春樹もまたそう考えて、「本当の意味での魂の交流の物語」「人と人との自発的な相互理解の物語」と評したのだろう。
宮脇の文はもう読むことができないので丁寧に紹介したが(書籍化もされていないようだ)、井上義夫の「「プロシア士官」論」はこの小説の不可解な魅力をさらに掘り下げて論じている。井上による「プロシア士官」の名訳(『ロレンス短篇集』ちくま文庫)とともに、一読をお勧めしておきたい。

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