『雪国』裏ヴァージョン――川端康成『雪国』について(その3)

 

 前述の水村美苗の「ノーベル文学賞と『いい女』」というエッセイには、『雪国』の英訳に関してもう1ヶ所、興味深い指摘があった。島村が駒子に「君はいい子だね」といい、それが「君はいい女だね」という言い方に変わる場面である。ざっとおさらいしておこう。新潮文庫では145頁。

 宿で、冷酒で悪酔いした島村を小さな子を抱くように介抱する駒子。島村はおさなごのように安心して駒子の熱い体に身をまかせたというから、添い寝でもしていたのだろうか。「君はいい子だね」島村はぽつりという。「どこがいいの?」と問う駒子に「いい子だよ」と繰り返す島村。要領を得ない言葉に駒子は「そう? いやな人ね。しっかりして頂戴」と取り繕いながら、ふと合点がいったかのように含み笑いをしながら、借着してお座敷に出るような私のどこがいい子なのよと混ぜ返す。さらに、初めて会った時に、島村が自分に芸者の世話をさせようとしたことまで言い募る。島村は、最初の駒子との出会いから馴染みになるまでのゆくたてを振り返ってでもいたのか、「一人の女の生きる感じが温く伝わって」きて、「君はいい女だね」という。「どういいの」という問いにも「いい女だよ」と繰り返すだけだ。「おかしなひと」と駒子は怪訝そうにしていたが、一転して何かに気づいたように「それどういう意味? ねえ、なんのこと?」と突然激して島村を詰問する。

「言って頂戴。それで通ってらしたの? あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」

 真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。

 (略)

 島村は駒子の聞きちがいに思いあたると、はっと胸を突かれたけれど、目を閉じて黙っていた。

「悲しいわ。」

 駒子はひとりごとのように呟いて、胴を円く縮める形に突っ伏した。

「あんた私を笑ってたのね」という言葉は前にも聞いた覚えがある。そう、初めて「あんなこと」があった後のことである。「心の底で笑ってるでしょう。今笑ってなくっても、きっと後で笑うわ」と駒子はむせび泣いたのだった。あの時からずっと島村は笑っていたのだと思い、「くやしい、ああっ、くやしい」と泣きじゃくる駒子。

 英訳では「君はいい子だね」は’You’re a good girl.’ 「君はいい女だね」は’You’re a good woman.’となっている。水村美苗はくだんのエッセイで、You’re a good girl.は問題ないが、You’re a good woman.は「君は正しい人だね」あるいは「あなたは正しい人です」というニュアンスになるという。つまり倫理的な意味での「善き人」を表す。したがって、You’re good.とでもすれば、「You’re good girl in bed」というニュアンスをもちえたかもしれない、と水村はいう。

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 だが、仮に島村が’You’re a good woman.’ではなく、’You’re good girl in bed.’という意味で’You’re good.’といったとしたら、駒子はどう聞きちがえたことになるのだろうか。’You’re good girl in bed.’といわれたと思い、激昂したのではなかったか。さらにいえば、駒子が怒ったのは、たんに性的存在として見られたというだけではなく、「都合のいい女」と思われた、と思ったからだろう。金銭づくではないけれど、不見転芸者と同列に見られていた、駒子にはそれが口惜しかった。

「私はそういう女じゃない」、それが駒子の自恃なのだ。島村はそういうつもりで言ったのではなかったが、駒子の「聞きちがい」は故なきことではないのだと「心疚しいものがあった」。駒子に「それで通ってらしたの?」と問われれば、そうではないと言い切れない。だから疚しいのだ(サイデンステッカーは英訳の序文に「彼が何気なく“いい女だよ”とことばを変えた時、彼女は今まで利用されていた自分に気がつく」と書いている。角川文庫版『雪国』に収録)。

 島村はどう思っているか知らないが、私は島村を愛している。その愛がまったくの一人芝居だったのが悲しい。駒子は銀の簪を「ぷすりぷすり」と畳に突き刺しなどしていたが、ふいに部屋を出ると、思い直したのかすぐに戻ってきて島村を湯に誘った。

 翌朝、客の謡の声で島村が目を覚ますと、鏡台の前にいた駒子が立ち上がってさっと障子を開ける。

 窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮び流れて来る。なんだか静かな嘘のようだった。島村は寝足りぬ虚しさで眺めていた。

 謡の人々は鼓も打っていた。

 島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思い出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらが尚大きく浮び、襟を開いて首を拭いている駒子のまわりに、白い線を漂わした。

 前回の末尾に書いた場面に照応する美しいシーンだ。そして、続けて、

 駒子の肌は洗い立てのように清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがえねばならぬ女とは到底思えないところに、反って逆らい難い悲しみがあるかと見えた。

 そういう女じゃないはずの駒子が温泉芸者に身を落している。肌の清潔さがよりいっそう駒子の悲しみを表しているかのようだった。

 この場面が『雪国』初版のラストシーンである。文庫本では2行空けて、新たに書き加えられたシークェンスが続き、繭蔵の火事の場面で幕を閉じる。これが『雪国』現行版となる。

 ここで、前述したBSドラマ版『雪国』について述べておこう。

 ドラマ版では島村が視点人物となり、彼のモノローグで物語が進行してゆくため、駒子の内面はうかがい知れない。それだけいっそうミステリアスな存在として印象づけられるのだが、ドラマでは原作のラストシーンである繭蔵での火事のあと視点人物が入れ替り、冒頭の場面にまで戻って駒子の日記(原作には文面は出てこない)をなぞりながら駒子のモノローグによって内面を明かしてゆく。ミステリーの謎が解き明かされるように、あるいは伏線が回収されるように*1

「私はそういう女じゃない」も「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ」も「あんた、心の底で笑ってるでしょ」も、島村に対してではなく(心のなかで)行男に向けて発した言葉とされる。大胆でチャレンジングな解釈である。ドラマ版『雪国』は、制作者たちが小説『雪国』をどう読んだかという、ひとつの目覚ましい回答である。

 病気になった行男の療養費を稼ぐために芸者になったという噂を、「いやらしい、そんな新派芝居みたいなこと」と駒子は否定してみせたが、このドラマ版『雪国』は駒子と行男の秘められた純愛がテーマのまさに新派芝居となり、駒子の「悲しみ」はせつないまでに際立つ。駒子のモノローグで語られる物語は『雪国』のエモーショナルな裏ヴァージョンであり、実をいえばわたしは新派芝居が嫌いではない。

 駒子はいとまを告げる時でも決してその場を去ろうとはしない、とドナルド・キーンがどこかで書いていた。行動は口にした言葉を裏切り、言葉は感情と背馳する。

 川端がこの小説で行間に埋め込んだものはなにか。それは書かないということでその存在をより強く露わにするなにものかだ。レティサンス(闕語法)のお手本というべきだろう。読み込めば読み込むほどほんとうの姿が徐々に表れてくる、それが『雪国』だ。奥深い小説だと思った。

                               ――この項了

BSNHK『雪国』より

 

*1:駒子と葉子との関係も明瞭になるし、駒子が芸者に出るまえの本名も明かされる。また、島村と駒子が再会した宿で、駒子が島村の逗留をあらかじめ知っていたように見えるのは、行男を迎えに行った駅で島村の姿を認めたからだとされる。ちなみに脚本の藤本有紀は、NHKの『カムカムエヴリバディ』の脚本の「怒濤の伏線回収」で話題になっているらしい。見てませんけど。