正義にあらがう ――あるいは、さよなら快傑黒頭巾

   「ぼくはいま、ぼくの大好きな快傑黒頭巾と別れるところなんですよ」
                   ――庄司薫『さよなら快傑黒頭巾
      


 少年時代の、といってもまだひとケタの年齢の頃のわたしのヒーローは、御多分に洩れず、月光仮面であり赤胴鈴之助であり少年ジェットでありまぼろし探偵であった。かれらはみんな「正義の味方」であり、ときに窮地に陥ることはあっても正義は最後に必ず勝つのだった。その単純明快な世界観を少年は毫も疑わなかった。
 長じて、世界は必ずしも少年漫画のように単純でも明快でもないと知るにいたった。正義は必ず勝つとは限らないし世界は正義と不正義に二分されるほど単純ではないらしい。それでも正義あるいは「正しさ」というものは、長いあいだわたしにとっての判断基準でありつづけた。少年漫画の影響力とはおそろしいものである。
 だが、当然のことだが、自分が「正しい」と思ったとしてもそれが正しさを保証するわけではない。たとえば、わたしがあることを正しいと思いそう主張するとき、わたしの対立者も自分が正しいと思いそう主張する。どちらが真に正しいのか。どちらも正しくないのか。あるいは、どちらも正しいのか。正しさは果たして唯一無二のものなのか。
 スポーツ選手がTVのインタビューなどで「自分を信じてベストを尽くす」と答えているのを見るたびに、わたしは幾分かの羨望と幾分かの疑念を抱かせられずにいない。どうすればそんなに自分を信じられるのだろうか。自分とはそれほど信じるに値する存在なのか。そんなとき、わたしはいつもマルクスの言葉をおもいだす。カールではなくグラウチョのほうだ。「わたしをメンバーに入れるようなクラブには決して入りたくないね」


 さて、ここからが本題である(本題と呼べるものがあるとするならばだが)。
 ハーマン・メルヴィルに「バートルビー」(1853)という短篇小説がある。邦訳は数種あり、入手の容易なのは柴田元幸さんの訳(これはネット上にPDFファイルでアップされている*1)、およびジョルジョ・アガンベンバートルビー*2に附された高桑和巳さんの訳*3
 法律文書を書き写す書写人バートルビーが主人公で、彼のつとめる事務所の経営者がこの一風変った主人公について語る、というのがこの小説の大まかなストーリーである。
 バートルビーは雇い主(私)の「文書を点検せよ」との要請に「そうしない方が好ましいのですが」、と穏やかな、しかしきっぱりとした口調で答える。唖然とし、怒り出す雇い主の度重なる要求にも「そうしない方が好ましいのです」と繰り返すばかりだ。雇い主は、文書の写しに間違いがないか点検せよという正当な要求が拒まれて、「信じがたいことではあれ、正義も道理もすべて向こう側にあるのではという気が何とはなしにしてくる」(柴田元幸訳、以下同)始末だ。
 バートルビーの「決まり文句」は、文書の点検の要求に対してにとどまらず、「郵便局に行って(局まではほんの三分である)、私宛てに何か届いていないか見てきてくれないか?」「隣の部屋へ行って、ニッパーズ(バートルビーの同僚)にここへ来るよう言ってくれ」「書類を押さえているからこの赤ひもの結び目を押さえていてくれ」といった些細な要求に対しても行使され、あまつさえ「君はどこの生まれかね?」という問いかけにすら「お答えしない方が好ましいのです」と述べるばかりで、ついには「しない方が好ましい」というバートルビーの「決まり文句」は雇い主や同僚にまで伝染してしまう。事務所に住みついてしまったバートルビーに「出て行ってくれ」と頼んでも、例によって決まり文句が返ってくるのみ。「彼が出ていかぬのなら、私が出ていくまでだ」と雇い主は事務所を移転する決意をする。雇い主が立ち退いた事務所に居座り続けたバートルビーはついに刑務所に収容され、「食事をしない方が好ましい」と眠るように餓死する。


 この小説は、というよりこの主人公バートルビーの決まり文句、"I prefer not to", "I would prefer not to"は、多くの思想家の深甚なる興味を惹きつけてきた。ブランショデリダドゥルーズアガンベンジジェクetc. こうした西欧の思想家の「読解」の一斑については、前掲のアガンベンバートルビー』の解説「バートルビーの謎」(高桑和巳)が参考になるだろう。ちなみにブランショが「バートルビー」について論じた『災厄のエクリチュール』は豊崎光一訳の公刊が予告されていたが未刊に終わった。デリダについては『死を与える』*4に若干の言及が見られ、ドゥルーズは『批評と臨床』*5第十章「バートルビー、または決まり文句」(谷昌親訳)で詳細に論じている。
 ここで主として検討してみたいのは、イタリアの思想家アガンベンの、井戸の底深く測鉛を降ろすかのような思考についてである。
 紀元前、パピルスが普及する以前のギリシャでは、「薄い臘の層で覆われた書板を尖筆で引っ掻いて書く」のが通例であったという。この何も書かれていない書板=白紙(タブラ・ラサ)の状態の思考をアリストテレスは『霊魂論』で「潜勢力(デュナミス)」と名づけた。潜勢力とは「思考することができるとともに思考しないことができる」という在り方である。アガンベンは次のような例を挙げている。建築家には建築するという潜勢力があり、演奏家には演奏するという潜勢力がある。それが「現勢力(エネルゲイア)」に移行すると建築物になったり音楽になったりするのだけれど、建築や演奏をしない場合でも彼は建築家であり演奏家なのである。
 ここでちょっと先回りすると、寡作の小説家や筆を折った「バートルビー症候群」の小説家たちをとりあげた作品にエンリーケ・ビラ=マタスバートルビーと仲間たち』*6がある。日本ではさしづめ庄司薫バートルビー・シンドロームの代表だろうか。庄司薫はかつて新潮社の〈新鋭書き下ろし小説〉のラインナップにもたしか名を連ねていたはずだけれど、編集者の矢の催促にも「書かないほうが好ましいのですが」とか言って逃げて逃げて逃げまくってたんだろうな。結局、芥川賞を受賞して再デビューしたあと、薫君四部作のほかには短篇小説を二作書いただけだった。「恐竜をつかまえた」(薫君シリーズのスピンオフ)も「アレクサンダー大王はいいな」も日本ではめずらしいソフィスティケイテッドな小説だった。もう書かないんだろうな。


 閑話休題
 さて、そうすると潜勢力というのはいわゆる「能力」とどこが違うのか。建築する能力があるけれど建築しない。それをなぜわざわざアリストテレスまで遡って考えなければならないのか。この二か月近くずっとこの問題を考えていたのだけれど、そこがイマイチよくわからなかった。いまでもよくわからないのだけれど、とりあえずわかった範囲で書いてみよう(書かないほうが好ましいのだけれど)。
 潜勢力とは、先に書いたように「思考することができるとともに思考しないことができる」力である。建築の例でいうと、「建築することができるとともに建築しないことができる」力ということになる。そこで、建築するということが、建築することができる潜勢力が現勢力へ移行したということなら、建築しないことができる潜勢力はどうなったのか。アガンベンのいうには、建築しないことができる潜勢力はたんに取り消されるのではなく、「それ自体へと向きなおり、建築しないのではないことができるという形を引き受けるのでなければならない」(これは、おなじくアガンベンの「思考の潜勢力」*7という講演録より)。建築を「存在」で言い換えれば、「現勢力へと移行するときに、自体的な非の潜勢力を単に取り消すのでも、それを現勢力の背後に放置するのでもなく、自体的な非の潜勢力を現勢力へとそのまま全面的に移行させ、つまりは現勢力へと移行しないのではないことができるもの、これこそが真に潜勢力をもっているものである」(「非の潜勢力」とは、「しないことができる潜勢力」の意)*8ということになる。ああややこしい。
 〈建築しないことが「できない」〉ではなく、あくまで〈建築しないのではないことが「できる」〉という形をとるのは、これが「力」の存在論であるからだろう。「非の潜勢力」は、『ホモ・サケル』で「非能力」「非‐力」とされているもので、「この論理は、たしかにアガンベンも認めるとおり、それを自分の感覚として理解することは非常に難しい」と『アガンベン入門』*9でエファ・ゴイレンはいう。


 「難しいのは、私たちが、ある可能性とそれが実現される過程を、たいていはまず意図や意志の側から考えてしまい、そのうえで、その人があることをできないのか、それともそのことをしようとしていないのかを区別する、という思考パターンに慣れ親しんでいるからである。しかし、私が何かを決心したり、または何かを望んだり望まなかったりするまえには、そのようなふるまい方の論理的な可能性があらかじめ許容されていなければならない。主体は、こうした可能性をゼロから生み出すのではなく、それをただ受けとることができるだけである。」


 われわれの日常的な思考では、「できない」というのは「する能力がない」とか「する意思がない」とかといったふうに考えるけれども、ここでは「する」とか「できる」とかいった事柄を原理的な問題としてとらえているわけである。だから日常的な場面で、たとえば奥さんから「ちょっと買い物に行ってきてよ」と言われて、ちょうどワールドカップの決勝戦の録画を見ていたので「行かないほうが好ましいんだけど」なんて言うと、それは「私の要求に従う意思がないのね!」と蹴飛ばされるのがおちである。ここで潜勢力の議論を持ち出すと火に油を注ぐだけである。
 要するに、そうした日常的な場面で頑なに「行かないほうが好ましいんだけど」と繰り返すのがバートルビーのすごいところである。わたしには到底できない。アガンベンに言わせると「バートルビーの試練は、被造物が冒しうる窮極の試練なのだ」ということになる(ちょっと意味が違ってるかもしれない…)。
 バートルビーの決まり文句は意思の表明ではない。あくまで「好み prefer」の表明である。「バートルビーは、ただ意志なしでいることができる」、つまり彼の「そうしない方が好ましいのですが」は「何かを絶対的に欲するということのないままに為すことができること(そしてまた、為さないことができること)に成功した」とアガンベンはいう。「成功した」かどうか疑問は残るけれども。
 ここで思い出すのは、レヴィナスの「顔」についての議論である。
 内田樹さんは『ためらいの倫理学*10アルベール・カミュの「反抗」について論じている。かつて――およそ十年ちかく前、この本の書評を当時定期的に執筆していた書評サイトに書いたことがある。長い書評なので、一部分を抜粋して引用する。

    * * *

 『グリーンマイル』という映画をご覧になった方は多いだろう。少し前に『デッドマン・ウォーキング』という映画もあった。いずれも死刑執行の場面が描かれている。ガラス窓を隔てた向こうでは、いまにも処刑が行われようとしている。そしてこちらでは、被害者の近親者が息を飲んでそれを見つめている。自分の愛する人を殺した憎むべき奴が目の前で死んでいく。あいつが死んでも愛する人は帰ってきはしない。でもあいつがのうのうと生きている限り死んだ人間は浮かばれない。これは正義の執行なのだ。私にはそれを見届ける義務がある――。
 ぼくは死刑廃止論者ではない。かといって死刑に積極的に賛成というわけでもない。自分の切実な問題として考えたことがないので、どちらがいいともいえないというのが正直なところだ。そういう人は多いと思うが、上に掲げたような死刑執行の場面には、なにか違和感を覚えないだろうか。なんだか「いやな感じ」がする。それをカミュは「反抗」と名づけた、と著者はいう(別に死刑執行の場面を例にあげているわけじゃないですけど)。


 《なんらかの「全体的な」真理や、異論の余地なき正義の名の下にテロルが執行されるとき、テロルに条理があることを認めている場合でさえ、ぎりぎりそれが現実のものとなるとき、「真理の暴力性」や「正義の過剰な峻厳さ」に「なんだかいやな感じがしてたまらなくなる」人間の心の微妙な動きを、カミュは「反抗」という言葉に、あるいは「顔」という言葉に託している。》


 私が殺そうとする相手と向かい合ったとき、相手が発するのは「殺すな」というメッセージである。《「汝、殺すなかれ」という戒律の言葉は、いままさに殺されようとしている人間の、「殺そうとしている人間」を見つめ返すまなざしから、(略)訴えとして、祈願として、命令として、「抑圧者」に到来する》。エマニュエル・レヴィナスを援用しつつ著者はそう論じる(著者はレヴィナスの翻訳者として知られる)。あるいはまた、大岡昇平の『俘虜記』の有名な一場面――敵である若き米兵の顔、その薔薇色の頬を見たとき、「私」は銃を撃つのをためらう――を引きつつ、その暴力の行使を押し止めるものを《「反抗」と呼びたい》と著者はいう。
 これは「非暴力」の訴えだろうか。そうではなく、暴力が「不可避」な時でさえ《顔と顔を見合わせるとき、そこには「殺すな」という訴えがあり、殺すことへの抑えがたい「ためらい」が生じる。》《現代において、もし暴力を効果的に制御しうる可能性があるとすれば》と著者はいう。《それは信仰の完成でも階級社会の廃絶でもなく、この「ためらい」を思想の準位へと繰り込む知性の努力ではないのか、カミュはおそらくそう問うているのである。》


 裁く者は裁かれる者の「顔」を見てはならない。なぜなら正義の執行がためらわれるから――。むろん正義は執行されねばならないが《それだけでは足りない》と、著者はレヴィナスとともにいう。そもそも正義を、厳正な裁きを希求したのは、他者の苦しみに触れたからではなかったか。原初に他者への愛があったのではなかったか、と。
 《ひとたび裁きが下されたときに、人は再び「慈愛の過剰」に帰還する。私たちはうなだれる被告の「顔」を見つめ、「なんとかして裁きの厳正さを修正しよう」と心を砕くことになる。(略)レヴィナスが説いているのは、この慈愛と正義の終わりない循環である》


 《レヴィナスは決して複雑な論理を展開しているわけではない》と著者はいう。《ある意味ではほとんど「平凡」な真理を語っているにすぎない》と。この平凡な真理は、ほとんど感動的でさえある。《正義が峻厳にすぎないように、赦しが邪悪さを野放しにしないように。》
 「ためらい」あるいは「反抗」。この「徹底的な中途半端性」を著者は「とほほ主義」と名づける。なんとも「とほほ」な命名でしまりがないけれど、この「なんか違うよなー」という武器(というよりツール)は、モンダイを解きほぐすにはなかなか威力を発揮するようだ。                       (bk1 2001.06.21より抜粋)

    * * *

 『バートルビー』とそれに関する批評をくりかえし読み、思いをめぐらしていた時にふと思い出したのがこの『ためらいの倫理学』だった。「ためらい」あるいは「徹底的な中途半端性」って、まさにバートルビーではないか!「したくない」ときっぱりと断言せず「しないほうが好ましいのですけど」と中途半端に拒絶する、この優柔不断さ。バートルビーカフカと結びつける議論はドゥルーズボルヘスら少なくないけれども、むしろカミュあるいはレヴィナスと結びつけるほうが好ましい。この「徹底的な中途半端性」を「思想の準位」へと繰り込むこと、そこにこそ「バートルビー」というテキストを読解する意味があるのではないか。
 ジュディス・バトラーは「生のあやうさ」*11で書いている。
 「エマニュエル・レヴィナスが導入する「顔」という概念で、そこから他者がどのように道徳的要求を私たちになし、道徳的要求を私たちに呼びかけ、私たちが頼んだわけでもないのにそれを拒否する自由がないのはなぜなのか」

 バトラーの議論についてここでは述べない。わたしが問題にしたいのは、「私たちが頼んだわけでもないのに他者が道徳的要求を私たちになす」という場面についてである。
 「道徳的要求」はおおむね正しさあるいは正義の要求として立ち現れる。たとえば、「核兵器の廃絶を求めるアピールに署名していただきたい」といった形で。核兵器の廃絶という案件はむろん「正しい」(現時点において相対的に正しい)。だが、それに対して「署名しないほうが好ましい」という答えは、核兵器の廃絶=正義にあらがうと見なされかねない。つまり、「署名していただきたい」という問いかけ=要求には見えない強制力がはたらいている。そうした要求に対して(あくまで要求に対してであって案件それ自体に対してではない)「しない方が好ましいのですけど」と答えるのは、妻の要求に対してより以上の「窮極の試練」といっていい。
 ジジェクは「イデオロギーのいかがわしい結び目、そしてそれのほどきかた」*12でこう書いている。


 《現在、「わたしは、しないほうを選びたい」は、なによりも、「わたしは、市場経済、資本制的な競争と不当利益行為に参加しないほうを選びたい」ではなく―― 一部の人からみればこちらのほうがもっと問題ということになるだろうが――「わたしは、アフリカの黒人の孤児をたすけるための慈善に寄付しないほうを選びたいし、野生動物が生息する沼沢地での石油の採掘を妨害する闘争に参加しないほうを選びたいし、アフガニスタン自由主義的なフェミニズム的精神の女性の教育のための本を送らないほうを選びたい……」である。》


 ジジェクは、バートルビーの「自分はそれをしないほうを選ぶ(のぞむ)」(同書の訳文にしたがう)は、「自分が否定するものに寄生している「抵抗」もしくは「抗議」の政治から、別の政治にうつるための方法である」という。「この政治は、ヘゲモニー的立場およびその立場の否定という両者の外側に、あたらしい空間をきりひらくのである」と。
 抵抗や抗議も自分の否定する「システム」の再生産に寄与する、とジジェクはいう。「あたらしい空間をきりひらく」とは、非和解的な対立の一方に与するのでなく、その外部に出ることを意味するのだろう。だが、外部に出ることは絶望的に困難だといわねばならない。はたして外部はあるのか――。


 最後に、もうひとつだけつけ加えておきたい。
 ドゥルーズは「表現特徴線(トレ・デクスプレッション)」、アガンベンは「潜勢力」、ジジェクは「パララックス・ヴュー」といった具合に、誰もが自分の理論もしくは関心領域に引きつけて論じているけれども、バートルビーの物語はむしろフーコーを導入するほうが解釈しやすいようにわたしには思われる。
 ドゥルーズは"I would prefer not to" という「決まり文句の奇妙さ」に注意を喚起している*13。「これは文法的に正しく、統辞法的にも正しいが、ぶっきらぼうな語尾"NOT TO"があるために、拒否をしてはいても何を拒否しているのかが限定されず、そのせいでこの決まり文句に過激な性格、一種の限界機能をもたらしている。しかも、それが繰り返され、執拗に口にされることで、全体に、より突飛な感じをあたえるようになる」と。そしてこの「決まり文句は行く先々を荒らし、蹂躙し、通ったあとには草木一本残らない」と。
 ドゥルーズのいうように、バートルビーの言表(エノンセ)は規範的なディスクールを逸脱している。すなわちディスクールの秩序を壊乱するという点において、バートルビーの身振りは「権力」にあらがっているといっていい。「権力」とはむろん強大な力を持つものが他者を抑圧するといった支配力としてのそれではなく、それとあからさまに気づかされることなく辺りに波及するいわば規律(ディシプリン)としての力の謂いである。バートルビーの言表が周囲を波立たせ、居心地の悪さを誘発するのはそのせいである。
 バートルビーの決まり文句がいつのまにか周囲に伝染し、他者の「言語を攪拌する」(ドゥルーズ)ならば、あるいはそこに「あたらしい空間」が現出する可能性があるのかもしれない。想像することさえ難しいけれども。
 「〈あたらしいもの〉を想像する困難は」とジジェクは書いている。「権力の座についたバートルビを想像する困難である」と。

*1:http://www.campus.u-air.ac.jp/~gaikokugo/meisaku07/print_06.html

*2:ジョルジョ・アガンベンバートルビー』高桑和巳訳、月曜社

*3:ちなみに以下のサイトには、邦訳書誌情報、英語原文、海外の翻訳書の書影や映画のトレイラー、スペイン語版のPVまであって至れり尽せり。http://tomoki.tea-nifty.com/tomokilog/2009/11/bartleby-the-sc.html

*4:ジャック・デリダ『死を与える』廣瀬浩司・林好雄訳、ちくま学芸文庫

*5:ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』守中高明・谷昌親訳、河出文庫

*6:エンリーケ・ビラ=マタスバートルビーと仲間たち』木村栄一訳、新潮社

*7:アガンベン『思考の潜勢力』高桑和巳訳、月曜社、所収

*8:同上

*9:エファ・ゴイレン『アガンベン入門』岩崎稔・大澤敏朗訳、岩波書店

*10:内田樹『ためらいの倫理学冬弓舎、現在は角川文庫

*11:ジュディス・バトラー『生のあやうさ』本橋哲也訳、青土社、所収

*12:スラヴォイ・ジジェク『パララックス・ヴュー』山本耕一訳、作品社、所収

*13:「通常の決まり文句は、むしろ、"I had rather not"であろう」とドゥルーズはいう。