この世の外ならどこへでも


《「O(にウムラウト)」
 バッハマン教授はみか子の前で正しく発音して見せる。この発音にはドイツ語学科に代々伝わる誤った発音法がある。「お」を言うつもりで「え」の口の形をして 「う」と言う。みか子はやってみる。
 「おぇー」
 「ミカコ!」
 バッハマン教授は何度もみか子に発音させる。
 「おぇー」
 何回やっても「おぇー」になる。他の乙女がやってもそうなる。バッハマン教授はこの音を乙女達に十分間各自で練習させる。キッチンタイマーをセットする。
 「おぇー、おぇー、おぇー、おぇー」
                      ――赤染晶子乙女の密告」 》


 このくだりを読んでいて記憶の底からある情景がよみがえってきた。中学一年生の英語の時間のことだ。
 教壇で背をまるめて座ったカメレオンという渾名の中年の教師が教科書を広げて両手に持ち、こう宣うた。「andのaはaとeがくっついた発音記号だからエとアを同時に発音します。エアンド、エアンド、エアンド」。いくら耳を澄ませてもそれはぼくたちの耳にはエアンドとしか聞えなかった。教師はひとりの生徒を名ざして、教科書を声に出して読むようにと言った。副級長を務めていたその女生徒は、ちょっと気取ってandをエンドと発音した。おそらく彼女は小学生の頃から学習塾で英語の勉強を始めていたのだろう、ぼくたちにはアメリカ人がしゃべるような垢抜けた発音に聞えた。
 教師のこめかみにぴりぴりと青筋が浮き出るのをぼくたちは確かに見た。「エアンドはエンドではない。エンドは〈終わり〉を意味する。〈そして〉はエアンドだよ。いいかね、発音してごらん。エアンド、エアンド」教師は強い口調で叱責した。女生徒は教師の勢いに怯え、涙ぐみながらエアンド、エアンドと繰り返した。
 むろん、ことはandにとどまらない。教科書の最初に出てくる動詞haveのaも困ったことにaとeがくっついた発音記号だった。I have a pen. さあ声に出して、アイヒャブアッペン。純真な少年少女たちは声をそろえて唱和した。アイヒャブアッペン、アイヒャブアッペン、アイヒャブアッペン。


 「乙女の密告」という短篇小説でもっともすぐれた点をひとつ挙げるとするなら、京町屋の描写である。京都の外国語大学に通う女学生みか子は、狭い路地の奥にある昔ながらの京町屋に住んでいる。夕暮時、みか子が家に帰ってくると、母は夕食の支度をしながら三面鏡の前に坐り化粧をしている。ホステスの仕事に出かける準備だ。急いで夕食をかきこむと「お豆腐屋さん、来はったら買うといて」とみか子に言い残して母は慌しく出かけてゆく。みか子は明け方帰ってくる母のために布団を敷き、母の食べた食事の後片づけをする。


《「あ」
 みか子は小さく声を出す。冷蔵庫の明るさに目がくらんだのだ。よくあるのだ。京都の家の中は暗い。台所はさらに暗い。こんな冬の日はなおさらだ。外はまだかろうじて明るい。家の中の暗さに気づかない。何気なく開けた冷蔵庫の中が京都の家の中では一番明るいのだ。木目の黒くなった床の上を冷蔵庫の光が照らし出している。みか子は冷蔵庫の扉をしばらく開けている。この明るさで暗い世界を照らし出せたらいいのにと思う。ぱたん、と冷蔵庫のドアが勝手に閉まったのが無情に思えた。家の中が真っ暗になった。みか子は電気をつける。電気をつけても、冷蔵庫の中が一番明るい。それが京都の家だ。》


 それに続く「世界は暗い。あまりに暗い」という言葉は、物語の語り手のというより、みか子の内面の心象だろう。みか子は『ヘト アハテルハイス』の頁を開く。『ヘト アハテルハイス』は『アンネの日記』の原題、「隠れ家」の意味という。みか子は暗い部屋の中で本を読む。「まだこの本が読めるほど、世界にはわずかな光がある。これから世界はもっと暗くなる。夜へと向っていく。時はどんどん進んでいくしかないのだ」
 京都の町屋は暗い。足を一歩踏み込むと昼なお薄暗くひっそりとしている。わたしは以前、京都に住むことになったときに町屋造りの借家を数軒見せてもらったことがある。玄関をはいったすぐの土間にお勝手のある造りの家もあった。町屋の暗さはわたしに懐かしいものだった。幼少期に過した家も薄暗い土間にお勝手のある造りだった。
 京都の町屋の暗さには千年の歴史がある。その暗さを冷蔵庫の光が照らす。いや、そうではない。冷蔵庫の存在によって部屋の暗さが際立つのだ。そして部屋の暗さがみか子の内面を形成する。町屋がアンネの隠れ家に重なる(「京都の家は人が隠れるのにちょうどいい」)。母との二人暮らしの隠れ家から脱出したい願望と、冷蔵庫の扉の向こうにある世界への怖れとの間でみか子は佇んでいる。
 「今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです」というアンネの言葉をみか子がいつも思い出せないのは、大学を卒業したらここよりほかの場所で「他者になりたい」という願望を抑圧しているためである。スピーチコンテストの最後、みか子はこの言葉を思い出し、「アンネ・フランクユダヤ人です」と「密告」する。それは、他者になることはだれにもできない、という自分自身への宣告にほかならない。
 作者は一場のファルスのなかに、他者とはなにか、民族とはなにか、ユダヤ人の宿命とはなにか、といった大文字の問題を仕込もうとする。だがそれは無理な相談だ。それを読者に説得力をもって感受させるにはこの十倍の分量が必要である。この小説の美点は、こうした大問題の議論にではなく、京町屋の薄暗い佇まいの描写にある。残余はどこかで聞いたことのある議論の蒸し返しにすぎない。神は依然として細部に宿っている。