正直と親切――正義にあらがう(その2)


 この夏、仕事の関係で戦争にかかわる大量の文献に目を通した。戦争とは昭和前期のいわゆる「十五年戦争」である。それらの文献はわたしの考え方、偏見、謬見に多かれ少なかれ変更を迫ることになった。よい機会を与えられたとおもう。ひとつ、つよく印象に残ったことを書いておきたい。大川周明が、自身所長を務める東亜経済調査局附属研究所、いわゆる「大川塾」*1の卒業生たちにむけておこなった訓辞である。東亜経済調査局は、もと満鉄の管轄下にあった調査機関で、のちに独立して附属研究所が設置された。大川周明は、旧制中学の卒業生を毎年二十名選抜して、二年間全寮制教育をおこない、仏印ベトナムラオスカンボジア)、インド、ビルマ等々へと送り出した。かれらは大川の唱える「大アジア主義」の実践部隊であったわけだが、大川は卒業式でこう述べたという。


 「諸君の任務は、一面において各地の綿密なる調査研究を進めて日本の亜細亜経綸に寄与すると同時に、他面においては日本人とは斯くの如きものなりと諸君の日常の行動によって亜細亜諸民族に知らしめることである。それには第一に、諸君は正直でなければならぬ。正直とは、己を欺かず、人を欺かず、天を欺かざることである。第二は、親切でなければならぬ。親切とは、誠実と慈悲を以て人に接することである。この二つを行い得たならば、諸君は日本人としての真面目を発揮し得ること間違いない。そして一人でも二人でも本当の友を現地人の中に見つけなさい。また、任地において趣味を見つけ、それを十年間続けることです」*2


 大川は、日本人にとってだいじな徳目として、まず正直、そして親切を挙げている。そして任地で「本当の友」と長続きする趣味とを見つけよ、と説いている。小学校の卒業式ではない。戦時下、日本軍が南方作戦で進駐する地域へ送り出す青年たちにむけての言葉である。大川はかれらにむかって「日本の亜細亜経綸に寄与」*3せよと述べているが、そのためにはまず自らを律せよという。日本人はかくあらねばならぬという大川の信じる理想を説いたのだが、「日本人」は「人間」と言い換えてもいいだろう。かれはここで有為の青年たちに普遍的な価値について諭しているのである。正義といわず正直と親切といった大川周明にわたしは感銘した。


 さて、前々回「正義にあらがう」で、内田樹の『ためらいの倫理学』の書評を抜粋して引用した。省略した部分はおもに加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる論争にかかわる個所である。省略したのは、そこに踏み込むと長くなるので別に論じる必要があると思ったからである。わたしはそこでこう書いている。


 《加藤典洋が『敗戦後論』で問いかけたのは、侵略者である自国の三百万の死者――うなだれる被告――の「汚れ」を自らのうちに取り込み、一人一人「顔」を持った存在として哀悼することが、即ちアジアの死者への謝罪につながるような道は可能かということではなかったか。それは法の裁きではなく文学の仕事である、と著者はいう。『レイテ戦記』がまさにそうであったように。正義の裁きを苛烈に要求する高橋哲哉は正しい。だが<「正しすぎる」ことは、時には「正しさが足りない」と同じくらいに有害でありうる>――》
 《加藤の『敗戦後論』を歴史修正主義ナショナリズムと同一視する粗雑な批判には「なんか違うよなー」と思っていただけに、この論文はぼくにはきわめて説得力が感じられた」》


 九年前に書いた書評だが、『敗戦後論』という本にたいする評価はいまでも基本的には変っていない。ただ、当時もそう思ったのだが、『ためらいの倫理学』における内田樹の立論は『敗戦後論』をめぐる論争に直截立ち入ってはいない。加藤典洋を批判する高橋哲哉は正しいが、「正しすぎる」ことは時には有害でありうる、というのがレヴィナスを援用した内田樹の立場である。だが高橋哲哉は本当に「正しい」のか、その点に関してわたしは判断を留保していた。なぜなら、この「歴史主体論争」とも名づけられた応酬に丁寧に付き合っていたわけではなかったし、どちらかが一方的に正しい論争などありえないと思っていたからだ。そもそも、きれいはきたない、きたないはきれい、正しさなんていったい何になろう、というのがすでにわたしのモットーになっていたのだから。
 『敗戦後論』は八年後、ちくま文庫として再刊された。文庫解説で内田樹はこう書いている。


 《高橋の語る「正解」は、「正解」であるにもかかわらず日本国民に周知徹底されていないし、近い将来に日本国民全体の総意を得る見通しもない。その場合、論理的にも倫理的にも「正しい」主張が受け容れられないという事実は、「日本国民の多くは救いがたく愚鈍で邪悪である」という判断に与することでしか説明できない。/論理の経済は高橋と彼の読者たちをいずれそのような判断に導くだろう。/たしかにそう判断することで、思想の風景はたいへん見通しのよいものになる。けれども、その代償に失うものが多すぎはしまいかと私は思うのである。》


 高橋の立論(の一つ)は、侵略され殺された「二千万のアジアの死者」にたいする哀悼と謝罪の前に、侵略者である「自国の三百万の死者」の哀悼を置くことを、なぜ加藤は求めるのか、である。高橋のこの問いかけはむろん「正しい」。侵略した側にも犠牲者が出たのだからまず身内の死を悼みましょう、というのは誰が考えても筋が通らない話である。加藤にしてもそんなことは百も承知で、それでもなお、自国の死者を悼むことが即ちアジアの死者への謝罪につながるような道は可能か、と問いかけているのである。そこには日本国民が敗戦以降、「内向きの自己」と「外向きの自己」とに分裂し、その「ねじれ」を意識しないできた、という現実認識がある。その「ねじれ」を意識化し、「ねじれ」を生き切る方途を探らなければアジアの死者への本当の謝罪には至りつけない、というのが加藤の理路なのである。道筋としては誤っているかもしれないが、正しい理路が実現できないなら迂路を通ってでも目的地に着こうじゃないか、いくらルートが正しくても目的地に着けなければ元も子もないじゃないか、と加藤は提案するのである。
 再度、内田樹の解説から引こう。


 《『敗戦後論』をめぐる加藤典洋高橋哲哉の論争の真の賭け金は「正しさは正しいか?」という問いに集約できるだろうと私は思う。/加藤はこの論争を通じて、「正義」は原理の問題ではなく、現場の問題であるという考え方をあきらかにしていった。ことばを換えて言えば、この世界にいささかでも「善きもの」を積み増しする可能性があるとしたら、それは自分自身のうちの無垢と純良に信頼を寄せることによってではなく、自分自身のうちの狡知と邪悪に対する畏怖の念を維持することによってである。》


 ここで内田樹はほとんどマルクス主義者としての理念を述べている。もちろんカールではなくグラウチョのほうである*4


 先月、踵を接して二冊の本が刊行された。一冊は伊東祐吏『戦後論――日本人に戦争をした「当事者意識」はあるのか』(平凡社)、もう一冊は加藤典洋『さようなら、ゴジラたち――戦後から遠く離れて』(岩波書店)。前者は、加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる論争について論じた修士論文を元に書籍化したものである*5。伊東は論争の経緯を丁寧に追尋するのみならず、加藤の立論を精確に受けとめたうえで内在的に批判している。これは加藤の論敵のだれもが為し得なかったことで評価に値しよう。後者は、『敗戦後論』の反響にたいする加藤の応答などを一本にまとめたもの。今回はこの二冊について書くつもりだったが、もう充分に長くなった。いずれまた何かの機会に触れることもあるだろう。『さようなら、ゴジラたち』について一点だけ書いておきたい。
 鶴見俊輔の『埴谷雄高』(講談社)の解説として書かれた「六文銭のゆくえ――埴谷雄高鶴見俊輔」という論攷が巻末に収録されている。ここで加藤は1979年にカナダへやってきた鶴見と初めて会った時のことを書いている。加藤は、鶴見に会うまでは鶴見のことをリベラルで温厚な紳士だろうと高を括っていた。


 《しかしやってきたのは、「温厚な紳士」ではなかった。それどころではなかった。数か月後、気づくのだが、この人は、リベラルどころではない、キチガイなのだ。ただ、そのことを一般人を前に恥じ、正気なふりをしている……。》


 鶴見は一九五〇年頃、重い鬱病にかかり精神病院に入院したことがあるらしい。おもしろいのは、その鶴見が埴谷雄高について、豊多摩刑務所に収監されていたときに「一度気が違った。しかし出てきた時には治っていたので、誰もそのことを知らない」と述べていることである。気が違ったかどうかは誰にもわからない、むろん埴谷自身にさえも。加藤は、鶴見と埴谷の「親近感は、ふだんから「気が違う」境域に生きている人の、いわば同好の士にたいするものである」と書いている。わたしはここにもう一人、大川周明をつけくわえたい誘惑に駆られる。
 鶴見の“うちに秘めた狂気”については、あまり指摘する者はいない。わたしは鶴見を埴谷に通じるアナーキスト=ニヒリストだと思うが、埴谷とちがって鶴見の書くものの表層からそれは殆んど窺えない。加藤の本格的な鶴見俊輔論を期待したい。

*1:大川塾の卒業生たちに取材した玉居子精宏氏の「大川周明『大東亜解放塾』の記憶」が雑誌「東京人」で連載された。今年の5月号から始まりこの8月号で全4回の短期連載が終了。加筆されて本に纏まることを願う。

*2:関岡英之大川周明の大アジア主義講談社

*3:東南アジアの国々は当時西欧列国の植民地だった。大川塾の卒業生たちのなかには、それらの国々で現地の人たちと力をあわせ独立のための反帝国主義闘争に加わる者も少なくなかった。「大東亜共栄圏」思想の意図はどうあれ、それが現実にどう作用したかは正確に見ておく必要があろうかと思う。

*4:グルーチョでなくグラウチョとしたのは、小林信彦に倣ってである。

*5:簡潔な「あとがき」に、論文を審査した教員の一人として坪井秀人の名が挙がっているけれども、坪井もまた『戦争の記憶をさかのぼる』(ちくま新書)で『敗戦後論』に一章を費やして論じていた。