正しさだけでは生きてゆけない



 ずいぶん長く更新しなかったな。この間、吉本隆明さんや安永蕗子さんが亡くなられて、感慨もひとしおだった。近親者の死(吉本さんと同年)にも見舞われた。まだ肌寒い北陸で野辺の送りに立会いながら、「朝には紅顔ありて夕べには白骨」の無常が胸に沁みた。
 猫の額よりも狭い庭の、冬のあいだすっかり葉を落として寒々しい枯れ木となっていた枝にいつのまにか青い芽がちらほらと見えたかと思うと、まるで一夜明けたらとでもいうようにいっせいに青葉が生い繁り、たちまち万緑の様相を呈したのには驚かされた。自然のもつ命の力を思った。
 むろんこの間、いろいろと本を読んだりもしていたわけだけれど、それらについてなにか書いてみようという気持ちになかなかなれなかった。ようやく春めいてきて、若葉とともにちょっと気持ちが動いてくるところがあった。今日は雨。今頃の雨を若葉雨という。途中まで書いてひさしく打ち遣っていたものを、これを機縁に書き継いでみよう。


 J・M・クッツェーの『恥辱』Disgrace。
 鴻巣友季子さんの翻訳が出たのはもう十年以上前の2000年で、いまでは文庫版が出ている。クッツェーはこの小説で二度目のブッカー賞を受賞した。読もうと思ったきっかけは、加藤典洋さんが『小さな天体』で、彼の地で(英語版で)読んで感銘を受けたと書いていたからだ。中上健次の小説――『枯木灘』だったか――に比して、傑作と称賛していた。読んでみると、中上健次とはテイストがちがうけれど、すぐれた小説であることはたしかだし、考えさせられるところもあった。そのあたりについて少し書いてみよう。
 ここから先は、内容に踏み込むので、いまこの小説を読んでいる人やこれから読むつもりの人にはご容赦願いたい。もちろん、「犯人」を名指しするわけではないのだけれど。
 主人公は五十歳を過ぎた文学教師。南アフリカケープタウンのカレッジで教鞭を執っている白人。かつては現代文学の教授だったが、合理化計画で古典・現代文学部が閉鎖され、いまはコミュニケーション学部の准教授である(といった経歴は、わが国のどこやらの大学を思わせもする)。著書にワーズワースの研究書があり、いまはバイロンに関する本を準備中だ。誰彼の詩が警句のように引用されてこの小説のトーンを形成するに寄与している。二度の離婚歴があり、現在はシングル。ナンパしたり娼婦を買ったりの日々を送っている。
 彼、ラウリーはちょっとした気紛れで女子学生のひとりと関係を持つ。容姿は端麗だが、「魔法の角笛」を「魔法のカクテキ」と読むような、凡庸な学生のひとりだ。ところが、ラウリーは存外本気らしく、彼女、メラニーに執心する。メラニーが授業に欠席しても出席にし、試験を受けなくても合格点をつける。これがのちに学内で問題となり、結局、セクハラまがいの行為として糾弾されたラウリーは大学を辞任するはめになる。
 ここまでが序盤。いかにも軽快な運びで、ソフィスティケイテッド・コメディの趣もある。失職したラウリーは東ケープ州の田舎の町で小さな自作農園をいとなむ娘ルーシーのもとに身を寄せ、そこで動物の保護病院(犬の去勢手術と野犬を安楽死させるのがおもな仕事)の手伝いをしながら、娘との新しい生活を送ることになる。そんな矢先、彼らの農園へ三人の男がやってくる。ならず者ふたりとひとりの少年。ラウリーとルーシーは彼らに手酷い暴行を受け、家財道具や車が持ち去られる。
 ここからは、ラウリーとルーシーがこのアクシデントにいかに向き合ってゆくかが焦点となる。軽快さは影をひそめ、重いテーマが徐々に姿をあらわし始める。
 ラウリーはルーシーに、この地を離れて、かつて住んだことのある(離婚したラウリーの妻、すなわちルーシーの母がいる)治安のいいオランダで暮らそうと勧める。いつまた彼らが襲ってくるかわからない。だが、ルーシーはそれを承知で、この地を離れることはできないと父に告げる。さらに、レイプによって身ごもった子を生むつもりだともいう。その意図が理解できないラウリー(大方の読者も)に、ルーシーは「二度と同じことはしたくない」と洩らす。ラウリーは、娘がかつて一度堕胎したことがあるのかもしれない、と思う。だがそれは、受け容れやすいように父を慮ってついた娘の虚言であるのかもしれない。
 ラウリーが無力感に苛まれるのは、失職したときではなく、自分の娘が理解の及ばない「他者」として立ち現れるときである。他人、とりわけ他民族であれば「やれやれ」と首を振り、その場から立ち去ればいい。だが、娘が相手ならそうはゆかない。彼は娘の説得に努める。
 ラウリーが大学を辞めるのは、セクハラで糾弾されたためではない。大学の同僚たちは、ことを「穏便」にすまそうとしていたが、彼はそれを拒絶する。ラウリーは自らの「格率」に従って生きる人間である。それが社会的道徳に背馳する場合、彼は自らの「格率」に従う。たとえ、それが自分の不利になるとわかっていたとしても。それが彼、ラウリーのいわばアイデンティティである。だが、それまで何があろうと揺るぎなく保持し続けてきた自らの「格率」への疑いに、彼ははじめて直面する。それは真に自らの足許を揺るがせる出来事である。


 「恥辱」とはなにか。「女子学生への痴情に駆られて南アの白人社会から抹殺される50代大学教授の、まさに恥辱を描き切った」*1というのが一般的な解釈のようだ。だが、わたしにはそうは思えない。メラニーは、三十歳以上年の差のある教え子だが、ラウリーは独身であり、彼女に惹かれたのは確かである(それが仮に一時の熱情であったとしても。クッツェーメラニーをヒロインたるべき女性として描かなかったのは、きわめてアイロニカルである)。社会通念上いささか問題があるとしても、ロマン派詩人を師と仰ぐラウリーが、社会通念を愛の上に置くなど、あろうはずがない。ラウリーにとっては、社会通念に屈服すること、もしくはそれと折り合いをつけて生きてゆくことこそがむしろ「恥辱」でなければならない。
 Disgrace:恥、不名誉、汚名。ラウリーの社会的失墜をDisgraceと取るのは、あまりに素朴に過ぎよう。クッツェーはむしろ、それをDisgraceと見る見方にたいして「Disgraceとは何か」と問いかけていると言うべきだろう。そして、彼を打ちのめすさらなる恥辱が待ちかまえている。
 強盗、レイプが日常茶飯事となったポスト・アパルトヘイトの現状にラウリーは直面する。レイプ事件に対し、「誘拐されなかっただけでも儲けもの」といわれる地で暮らし続けるというルーシー。そのためには、農園を共同で経営するペトラス(妻が二人いる中年の南ア人で、レイプに加わった少年の親族でもある)に土地を譲渡し、農園の「小作人」かつペトラスの「愛人」となることも厭わないという。この地で「安全」に生きてゆくためならば。
 ペトラスはラウリーに向かって、さも当然のようにいう。少年はいずれルーシーと結婚する。だが彼はまだ若い。だからそれまでは自分がルーシーと結婚する。ここで暮らしてゆくつもりなら、当然そうするべきだ、と。この地では「正義」は通用しない。なかんづく、ラウリーら「われわれ西欧人」の正義は。
 「なんという屈辱だ」とラウリーはルーシーにいう。「あんな大志を抱きながら、こんな末路を迎えるとは」


 「ええ、そのとおり、屈辱よ。でも、再出発するにはいい地点かもしれない。受けいれていかなくてはならないものなのよ、きっと。最下段からのスタート。無一文で。それどころか丸裸で。持てるものもなく。持ち札も、武器も、土地も、権利も、尊厳もなくして」
 「犬のように」
 「ええ、犬のように」


 2003年、クッツェーノーベル文学賞を受賞した際、銓衡委員会は授賞理由をこう述べたという。「さまざまな手法をつかって、外部の者が巻き込まれていくさまを驚くべき物語として描いている」(福島富士男「暴力と告白――貫入する文学」*2)。「外部の者が巻き込まれていくさま」とは、福島によれば、「外部が内部へと侵入していくときの暴力そのものを指し、あるいは傍観者であるものが暴力の現場を目撃し、いやおうなく当事者とされてしまうこと」を指す。外部の侵入とは、いうまでもなく、クッツェーが初期の作品において描いてきた、「帝国主義的侵略によって生じる辺境(植民地)における支配/被支配の問題」にほかならないが、それがここ『恥辱』ではある意味で逆転し、白人入植者が先住民によって暴力的に侵されるのだ。ラウリーは自らも暴行を受け、いやおうなく当事者にされてしまう。ここには福島のいうように、「帝国主義的な暴力の枠を超えて、より普遍的な人間存在に関わる暴力の問題へと重点を移していく」クッツェーの問題意識の深化がうかがえよう。
 「犬のように」という言葉には、訳者あとがきで指摘されているように、カフカの『審判』の末尾の「『犬のようだ』と彼は言った。恥辱だけが生き残るように思われた」が反響している。そしておそらくは、「犬のように」生きることを余儀なくされてきた南アの黒人(この小説で「黒人」という言葉は注意深く避けられている)の立場に、いま西欧人が立たされているのである。この地を離れて生きるという選択肢を持たない黒人の立場に。
 この小説を読んでいて、ラウリーに思い浮べたのは『シングルマン』のコリン・ファースだ。大学教授という単純な連想かもしれないが。映画(日本未公開)で演じたジョン・マルコビッチのラウリーも見てみたい。

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

*1:クッツェー『遅い男』の書評。読売新聞掲載、尾崎真理子評。http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20120206-OYT8T00543.htm

*2:『夷狄を待ちながら』集英社文庫解説