異邦の薫り――くぼたのぞみ『鏡のなかのボードレール』を読む



 もう随分まえのことになるけれども、クッツェーの『恥辱』という小説についてここでふれたことがある*1。いい小説だと思い、いくつかの場面についてはいまも印象につよく残っている。だが、最近読んだある本によって、わたしは自分の無知を思い知らされることになった。無知については言うも更なりだけれど、いい小説だと思ったわりには全然この小説を読めてないじゃないか、といささか暗然とするところがあった。
 わたしはこの小説の主人公についてこう書いている。「二度の離婚歴があり、現在はシングル。ナンパしたり娼婦を買ったりの日々を送っている」。そして、「彼、ラウリーはちょっとした気紛れで女子学生のひとりと関係を持つ」と。女子学生メラニーとの交際が発覚して主人公は大学を辞めることになるのだから、このエピソードはプロット上の大きな意味をもつ。しかし、それに優るとも劣らぬほど重要な意味が冒頭の「娼婦を買ったりの日々」にあることを、くぼたのぞみ『鏡のなかのボードレール』(共和国、2016年6月刊)*2、とりわけ第9章の「J・M・クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」という文章によって教えられた。
 

 小説の冒頭、主人公は娼館へおもむき、馴染みの女性ソラヤと性交する。その第二パラグラフの最後にこう書かれている。「ソラヤの顧客になってゆうに一年。彼女には満足しきっている。砂漠のような一週間が、木曜は豪奢で悦楽に満ちたオアシスとなったのだから」(くぼたのぞみ訳)。この「豪奢で悦楽に満ちた」に「ルュクス・エ・ヴォリュプテ」とルビが振られているが、原文は「luxe et volupté」、フランス語のイタリック体になっている(小説は英語で書かれている)。わたしの読んだ鴻巣友季子訳『恥辱』は、「贅と歓びの」でルビも強調もない。
 くぼたは最初に原著を読んだときは「勢いにまかせて」読んだために、そのフランス語の三語をとくに意識しなかった、だが、オクスフォード大学のピーター・マクドナルドがクッツェーについて学生に講義をする動画を見ていて「はたと気づいた」という。このマクドナルドの講義というのも、きわめて興味深いものだ。小説の冒頭の一文「五十二歳という年齢、離婚歴のある男にしては、セックスの問題はかなり上手く解決してきたつもりだ」について、マクドナルドはセックスを「解決しなければならない問題」(solved the problem of sex)とすることに焦点を当て、「このようなデカルト的合理主義に疑問を投じ、主人公の「解決法」が作中で崩壊し、どのような災厄を招いていくかを指摘していく」という。刺戟的な読解だ。こういう講義を受けられる学生がうらやましい。
 さて、クッツェーがイタリック体で示した「luxe et volupté」、くぼたによれば、これはボードレールの『悪の華』の有名な詩「旅への誘い」に出てくる「luxe, calme et volupté」の引用(「クッツェーがよく使う、原テクストを少し違えた「誤引用」」)だという。「豪奢で、静謐で、悦楽に満ちて」。クッツェーはなぜここでボードレールを引用したのだろうか。しかも、読者にそれと知らせるようなほのめかしとして。


 ソラヤの所属するエスコート・クラブは、ケープタウンの中心から少し離れたグリーン・ポイントにある。ここは「アパルトヘイト時代は背徳法に反するカラーラインを跨ぐ売買春が行なわれていたことで悪名高い。人種別に居住区を定めた集団地域法に反して多人種が混じって住んできた地域でもある」(くぼた)という。主人公が街中で二人の子どもを連れたソラヤと出遭ったのを機に、彼女は彼の前から姿を消す。彼がエスコート・クラブに電話をすると、ソラヤは辞めた、なんなら別の女性を紹介しよう、と電話に出た男はいう。「エキゾチックなタイプは選り取りみどりです。マレーシア、タイ、中国、お好みをどうぞ」(鴻巣訳)。ソラヤもまた「陽に焼けた痕跡のない」「蜂蜜色をした褐色の肢体」をもつ「ムスリム」の女性だった*3。 
 「褐色の肢体」をもつ女性との「豪奢で、静謐で、悦楽に満ち」た時間――。
 ボードレールの『悪の華』には特別に「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」と呼ばれる数篇の詩がある。初版で十六篇、第二版で十八篇。ボードレールのミューズともいうべき、カリブ海出身の黒人と白人の混血女性ジャンヌ・デュヴァルにインスパイアされた詩篇である。くぼたのぞみはこう書いている。


 「ボードレールの「旅への誘い」に出てくる三つのフランス語「luxe et volupté(豪奢で悦楽に満ちた)」をわざわざイタリックで示しながら、クッツェーは一九世紀半ばのヨーロッパ系白人男性の異国情緒と絡めた女性への憧れや性的欲望をこの『恥辱』のなかに描き込んだ。二〇世紀も終盤のケープタウンで人種主義のシステムが崩壊した社会に生きる、これまで特権的地位にあったことをさほど疑問にも思わなかった五十二歳の白人男性の悦楽のあり方として刻み込んだのだ。」


 たしかに、くぼたのぞみの言うように「日本語読者の多くは(略)南アフリカの複雑な人種構成や歴史事情を思い描くこともないだろう」し、「背景がわからなくても、作者の深い意図まで読み取らなくても、小説は面白く読める」にちがいない。「グリーン・ポイント」という地名にも、わたしをふくめて大方はなんの感興も催さないだろう。だが、クッツェーが(周到に)冒頭に置いた主人公とソラヤとのエピソードをうっかり読み飛ばしてしまうと、この小説を表面だけで理解したつもりになりかねない。面白く読んだけれども、じつは本当には読めていなかったのじゃないかと思ったのは、このくぼたのぞみの指摘によってである。
 くぼたは「ホッテントット・ヴィーナス」の名で知られるサラ・バートマン――ケープタウンからイギリスへ見せ物として連れ出された有色人女性――の最初の「所有者」デイヴィッド・フーリー David Fourie の名と『恥辱』の主人公デイヴィッド・ルーリー David Lurieとの関連を指摘し、「作家は当初、頭文字だけ変えてLourie としたが、アフリカーンス語ではルーリーと読んでも、英語圏ではスコットランドアイルランド系になりラウリーと発音されるかもしれない、と一文字削ったのではないかと推察される」と書いている。邦訳では「ラウリー」となっている。
 そしてさらに、ハベバ・バデルーンの『眼差すムスリム――奴隷制からポストアパルトヘイトへ』(2014、未訳*4)の第四章「ケープ植民地における性をめぐる地理学――『恥辱』」における、冒頭部分に関する犀利な分析を紹介する。バデルーンは自身ムスリムクッツェーの教え子でもある。ほんの一部分の紹介を読んでも、この本がポストコロニアルスタディーズの最良の成果であることはよくわかる。すでに充分長くなったので、関心のある方は直接同書もしくは『鏡のなかのボードレール』をお読みいただきたい。


 くぼたのぞみは書いている。「ソラヤとは誰かを考えることは、クッツェーがこの作品の冒頭にあえてソラヤを置いたことの意味を考えることでもあるだろう」と。わたしはこの『鏡のなかのボードレール』で己の迂闊さを知らされ、あわてて『恥辱』の冒頭を再読した。なるほど、初読のさいは気にせずに読み飛ばしていたのだが、そういう目で見るといくつか気になる箇所も目につく。一例をあげれば、主人公がソラヤとの交わりを自問する、自由関節話法で書かれているところ。
「セックス面は、烈しくあっても情熱的ではない。わが身の象徴としてトーテム像を選ぶとしたら、蛇だろう。ソラヤとの交わりは、思うに、蛇の交尾さながらにちがいない。事は長々しく、一心不乱だが、絶頂の瞬間にも、どこか観念的でむしろ乾いている。/ソラヤのトーテムもまた蛇だろうか?」(鴻巣訳)
 これは当然『悪の華』の一篇「踊る蛇」(第二版28)を念頭に置いているのだろう。


 「私の目の楽しみは、物憂げな恋人よ、/そんなにも美しいきみの体が、/ゆらゆらとそよぐ布地のように、/肌をきらめかすさま!/(略)/身はなげやりに美しく、拍子をとって/きみの歩むさまをみれば/棒の穂先にくねくねと/踊る蛇にもたとえようか。」(阿部良雄訳)


 韋編三たび絶つ。繰り返し読まねば本は読んだことにならないとあらためて銘肝した。


鏡のなかのボードレール (境界の文学)

鏡のなかのボードレール (境界の文学)

*1:id:qfwfq:20120414

*2:宗利淳一の装本がみごと!

*3:女子学生メラニーもまた有色人女性である。「この作品では白人男性の欲望が、もっぱら有色の女性に向かっていくことが明示されているのだ」(くぼた)。

*4:Gabeba Baderoon: Regarding Muslims―from slavery to post-apartheid, Wits University Press, 2014 「南アフリカの歴史のなかでもっとも見えにくい存在であったムスリムについて論じる好著」(くぼた)とのこと。翻訳が待たれる。