ボンサンスの人――馬場孤蝶


 連休中の某日、樋口一葉の日記を読む。仕事の必要に拠りてなれどつい読み耽り暫時酩酊し時の経つのを忘却す。


 「毎夜、廓に心中ものなど三味線に合せてよみうりする女あり。歳は三十(みそぢ)の上いくつ成るべきにや、水浅黄にうろこ形のゆかたきて、帯は黒繻子の丸帯をしめ、吉原かぶりに手ぬぐひかぶりて、柄長の提燈を襟にさしたるさま、小意気にしやんとして、其のむかしは何なりけん、鶯なかせし末なるべきか。まだ捨てがたき葉桜の、色を捨ててのあきなひと見れば、大悟のひじりの心地もすれど、あるいは買かぶりの我れ主義にて、仇な小唄の声じまん、これに心をとどめよとにや。素見(すけん)ぞめきの格子先、ちょつと一服袖引きたばこ、上がれ上がるの問答に、心浮かるるたはれをはしらず。粋(すゐ)が身をくふおもふどし、二かいせかれてしのびあし、籬(まがき)にからむつたのもん、松の太夫とささやきの、哀れ命を引け四つのかねに限り、鴛鴦(えんあう)瓦上おく霜の、明日をまたじとおもひつめし身には、いまに身にしみて心ぼそかるべき。ほそく澄みたる声はりあげて、糸の音色もしめやかに、大路小路とながしゆくうしろ姿、これが哀れか、かれが哀れか。」 (日記「塵の中」明治二十六年八月三日の条)


 昭和十六年刊の新世社樋口一葉全集第四巻に拠る。註に「この一節は、一葉調美文の一つ。七擒八縦、蜘蛛が糸を吐くが如き文章の綾の美しさ、上げて落して、一転する調子の美しさ、一概に古いと退けずに、一応は恍惚とするのもまた一得であらう。しかも、苦吟の末に成つたのでないところが、値打ちであらう」とある。註したのは小島政二郎。文藝銃後運動のため、久米正雄片岡鉄兵佐佐木茂索らと「満洲から北支へ講演旅行」をしたその合い間に明暮この仕事に携ったと後記にある。


 「一葉自筆の原稿と引き合はせをしてゐる間、しじゆう思ひ出されてならなかつたのは、この読みにくい自筆の原稿を、間違なく筆写して、一字一句の省略もなしに単行本として世に出して下さつた馬場孤蝶先生の労苦であつた。一葉に対する愛情のみがこれをよくなし得たのであらう。当時、日記をありのままに出版することについては、随分難色を示した人が多かつたと聞いてゐる。ところどころ省いて、なるべく人に迷惑を掛けないやうな形で公刊するやうにとの説を成す人が多かつたさうだ。それを敢然と退けて、あるがままの日記を世に問はれた先生の良識に対して、その労苦と共に、私は何と云つて感謝していゝかその言葉に苦しむ次第である。先生在天の霊に向かつて、私は改めて心から感謝の誠を献げたい。」


 馬場孤蝶斎藤緑雨とともに同時代の文人として類稀な一葉の理解者であった。
 平田禿木は孤蝶を一葉の恋人に擬したが、一葉の孤蝶への思いは愛恋というよりもっと淡い慕情のようなものであったと思われる。「姪より」と記した孤蝶へ宛てた書翰にそれを窺うことができる。孤蝶は一葉の才能を愛した。そして天才の夭逝を誰よりも惜しんだ。
 一葉の小説の名品に優るとも劣らぬ厖大な日記は孤蝶と露伴の献身により公刊された。一葉は日記を文章の手習いの積もりで書いていた。一葉の天性の文才は小島政二郎のいうように上記のような文章を推敲をかさねることなく書き得たところに瞭らかに窺うことができる。一葉はそれを時に鼻紙にしたり裏に習字をしたりして散逸を惜しまなかったという。
 緑雨もまた一葉の才をこよなく愛した一人だった。緑雨は死に際して自らの筆跡の残る原稿類はすべて処分したが一葉の歌を筆写した原稿のみは残した。一葉の最初の小説全集を校訂したのは緑雨である。誤植が殆ど一ヶ所もないと言われた。巻頭の「一葉女史、樋口夏子君は東京の人なり」という名高い一文は緑雨の手になるものである。
 死期を悟った緑雨は人を遣わし孤蝶を呼んだ。樋口家より預かっていた一葉の遺稿を託し、遺書の口述筆記を頼むためである。「僕本月本日を以つて目出度死去致候間此段謹告仕候也 緑雨斎藤賢」の死亡広告は緑雨の遺志に拠り万朝報などの新聞に掲載された。遺体とともに火葬場へ付き添ったのは、縁戚を除くと孤蝶、露伴、与謝野寛の三人のみだった。狷介孤高の文人緑雨は人に住所すら教えなかったので、緑雨の病が重篤であるとはその三人以外文壇に誰一人知るものがいなかったのである。

 孤蝶の死後公刊された随筆集『明治文壇の人々』の凡そ三分の一は一葉と緑雨に関わる文で占められている。「「にごりえ」の作者」という短章に、孤蝶は以下の逸話を書きとめている。


 「一葉女史は自分の作物に就ては得意らしいとか、熱中したとかいふ様子を決して、人に見せない人であつた。戸川秋骨が『われから』の中の奥方が宮の前で、物思ひに沈むところを賞めたところが、一葉さんは下を向いて、微笑を含んで、『彼所が肝腎なところです』と低い声で云つた。『滅多に自分の作のことを云はない人が、彼れだけに云つたのだから、彼所は大に得意なのだらう』と云ったことがある。女史自身が自分の作物に就て何か云つたことがその外にあつたか何うか、吾々は少しも記憶して居ない位である。」


 回想記の醍醐味とでもいったものはこういう箇所にある。
 緑雨には抜身をぶら下げているようなぎらぎらしたところがあるが、孤蝶はそういった鋭い切れ味を感じさせない。いかにも慶應の教授らしいボンサンスの人という印象がつよい。


【追記】『明治文壇の人々』が10月20日ウェッジ文庫より復刊された。書影を掲げる。(10月27日記)

明治文壇の人々 (ウェッジ文庫)

明治文壇の人々 (ウェッジ文庫)