秋風と二人の男



 男は夕刻に友人と待合せの約束があり出かける用意をすませたが、家を出るにはまだ少し時間が早い。妻が台所で夕食の巻き寿司をつくるのを見るともなく見ている。妻は木の寿司桶に御飯をうつし団扇であおいで冷ますと、俎板のうえの簀に布巾を載せ、そのうえに海苔をひろげるとしゃもじで御飯を掬って海苔のうえに載せる。具をひとつずつ順々に御飯のうえに揃えて上半身を乗り出すようにして巻きにかかる(堅く巻くにはけっこう力を入れなければならないのだ)。妻は夫の外出を知らなかったので巻き寿司にしたのだが、せっかくつくったのだからひとつ抓まんでゆきませんかと夫に問う。男はこれから友人と会い酒を酌み交わすつもりなので食事をするわけにゆかないが、あまりうまそうなので一口ならいいかと妻の誘いにのる。妻は巻き寿司の一本を俎板に載せ、濡れた布巾で包丁を湿らせて切り分ける。この端のところがおいしいんです、御飯が少なくて具がたくさんあるから、と小皿に載せて夫に差し出す。男は一口食べて、これを友人に食べさせてやりたいと思う。友人は二年前に妻を亡くし、高校生の娘と二人で暮らしているのだ。ハンバーグと餃子が得意料理だという友人の娘は巻き寿司などはつくらないだろう。妻にそういうと、持って行かれますかとはずんだ声でこたえる。妻はいそいそと巻き寿司に包丁を入れ切り分ける。端のところも入れておいてくれと男は妻に念をおす。
 とくに何か用件があって会うわけではない。ただ酒を飲みながら話をするだけだ。じっさいビアガーデンでビールのジョッキを飲みながら話すことといえば、フランスパンを買って食べたら入れ歯が割れてしまい、割れた入れ歯を塵紙に丁寧につつんで歯医者へ持っていったら新しいのをつくりましょうとあっさりいわれて拍子抜けしたというような友人の他愛ない近況で、それにこたえて男も、以前から歯槽膿漏だといわれていて水を飲むと歯に沁みるからビールを飲むときも口の中を一方だけ通行止めにして沁みる歯のほうへ行かないようにして飲むのだ、うがいはしなくてもいいけれどもビールを飲まないわけにゆかないからね、と一頻りその話題がつづく。巻き寿司の包みは最初テーブルの下に入れておいたのだが忘れると困るといまはテーブルの上に置いてある。
 もう十年以上も前から家族で海水浴に出かける村があってと男が話すころにはもうビールは銚子と猪口に替っている。いつも泳ぐまえに小さな神社にお詣りにゆくのが習いで、このまえ行ったときに老人がしきりに話しかけてくるので何かと思ったら、どこか遠いところから来たようだが惜しいことをした、もう祭りはすんだ、惜しいことをした、とさも残念そうにいう。祭はすんだ、か、と口に出していい、いい言葉だとつづける友人はその言葉に別の意味合いを感じ取っているかのようで、それを知ってか知らないでか男もまたいい言葉だと相槌をうつ。
 その村へ行く途中に汽車から見える景色が最初に来たときからちっとも変らないと男はいう。稲田のあいだに海へ流れる小川があって、男の子が二、三人、川のふちで何かをやっていて、釣り人をのせた舟が一艘ところどころに家のある田んぼのあいだをゆっくりと進んでゆく。江村八九家というところだなと友人はその光景に杜甫かなにかの詩を思い浮かべる。それを見ると有難いなあという気がしてたまらなくなると男はいう。最初に来たときからちっとも変らない、なにかあり得ないことのような気がして思わずその景色にじっと見入ってしまうんだ。夢のような美しさ、というだろう、これがそうだな、といつも思うんだ。友人はボーイの持ってきた銚子の先を持って、ちょっと熱いなといいながら男の猪口に酒をそそぐ。男もその銚子を取って、うん、ちょっと熱いといって友人の猪口に酒をそそぐ。


 清江一曲 村を抱いて流る
 長夏江村 事事幽なり
 「世の中に変らないものはない、いつまでもそのままで残つてゐるものはないんだといふ気持で暮してゐる」男にとって、その田園風景はありえない、夢のようなものとして写る。だがそれは夢ではなく現実の光景にほかならない。年年歳歳繰り返されるなんの変哲もない田舎の暮し。男はいう。「僕らがそこを通る時がいちばんいい時なのかも知れない。いちばん暑いさかりに行くから」。だから、夢のような美しさを感じるのだ。「陽が強いから、あんなに見えるんだらうな」。だがそれは陽ざかりのせいばかりではあるまい。
 昨日で八月は終わり、もう晩夏というより初秋といってもよい頃だ。家を出るときは陽が照っていたために半袖のシャツで出てきたが、日暮れになると肌寒くなり上着を着てくればよかったと男は後悔する。だがいまから取りに戻れば待合わせに遅れてしまう。「何も冷蔵庫の中へ入りに行くんぢやないんだ」と男はそのまま駅に向って歩いてゆく。
 「彼の乗つてゐる電車がヨットの浮んでゐる川を渡つて(その時もまだ、陽がさしてゐた)、人家の少いところを走つて、そのうち次第に家が混んだところへさしかかつて来ると、線路の横の道を歩いてゐる買物籠をさげた女の人にも日暮の気配が感じられるやうに」なって、男はにわかに半袖シャツの先から出ている腕が気になりだすのだが、男の目にヨットの浮んだ川や陽の光に映えるまばらな人家のある風景はどう見えていたのだろう。むろんそれは鄙びた村の光景と同じではないけれども、江村とおなじ相も変らぬ幽かな情景であったはずだ。妻は紙に碁盤を描きはしないけれども、簀に布巾を載せて巻き寿司をつくっていた。男がそれを飽きもせずに眺めていたのはその習熟した手技に「世の中に変らないもの」を見ていたためではなかったか。
 むろん作者はそんな野暮を書きはしない。ただ、たんたんと日常の瑣事を書きつらねるだけだ。微躯、此の外に更に何をか求めん、の境地に男があるか否かの判断は読者にゆだねられている。


 この短篇をふくむ『丘の明り』という小説集の帯に、永井龍男は「日本の作家の誰も持っていない境地を切り開いた。しかも、実に静かにだ」と讃辞を寄せている。「たとえばこの集の中にも、「秋風と二人の男」のような神品がおさめられている。こういう小説が書けたら、どんなにたのしかろうと思うが、この人のほかには絶対に、誰にも書けない」と。
 永井龍男をしてそう言わしめた作家、庄野潤三が先月二十一日に亡くなった。享年八十八。死ぬまで現役の小説家だった。