蘆江と緑雨――『東京おぼえ帳』を読む



――ひさしぶり。
――ほんと。三年ぶりぐらいかしら。
――そんなになるかな。
――だって見てよ、これ(id:qfwfq:20050828)。
――ほんとだねえ。これはこれは。
――で、今日は何を仕入れてきたの?
――新刊の文庫で『東京おぼえ帳』。
――あら、可愛い本ね。平山……
――ロコウ。
――聞いたことないわ。
――むかし、『怖がる人々』って映画、一緒に見に行ったことあったろ?
――和田誠さんが監督した映画ね。随分ふるい話じゃない? あの頃は若かったわね、あなたも。
――まあまあ。あのなかの「火焔つつじ」って、おぼえてる?
――庭のつつじが真紅に燃え上がるっていう、幻想的なお話ね。
――あの原作小説を書いたのが平山蘆江なんだ。
――じゃあ岡本綺堂みたいな怪談作家なの?
――でもなくて、おもに書いてたのはカリュウ小説。
――いま話題のニートみたいな?
――その下流じゃなくて花柳のほう。ようするに藝者の世界のお話だね。
――この本もそうなの?
――これは小説じゃなくて、花柳界梨園――歌舞伎の世界だね、それに川上音二郎や沢正から伊藤博文ら政界の大立者まで、明治大正昭和の多士済済の人物たちにまつわるゴシップ集のようなものなんだ。
――ふ〜ん、面白そう。「おぼえ帳」って……
――メモ帳みたいなものかな。鬼才斎藤緑雨にも『おぼえ帳』って題の本があるんだけど、緑雨はその本の冒頭にこう書いてるよ。「紙十枚ばかりを綴ぢたるをおぼえ帳とて、幼きころは誰もしつる事なり。(略)似たるものなればわれもこゝにおぼえ帳と名けて、見聞くまゝの浮世といふも烏滸がまし、都にこそ育ちたれ随筆といふ年にはあらず、興なきがやがてお話なるべしと次第も定めず、ほんのそこらの落葉時雨、窓の下に筆の箒の只かきつくるものなり」。
――蘆江さんの本も文語体なの?
――緑雨は早世したけど、蘆江は緑雨より十四、五年あとに生れて昭和の戦後まで生きた長命の人だった。『東京おぼえ帳』は亡くなってすぐ出た本だから、いま読んでもすらすら読めるはずだよ。緑雨と同じく新聞記者を長くやっていて、俗曲に通じ狭斜通であることなど、ふたりには共通点も多いね。
 緑雨の『おぼえ帳』はいわばコラム集の趣きだけど、蘆江のは一篇一篇がもっと長い読み物になってるんだ。蘆江にも『左り褄人情』っていう面白いコラム集があるんだけど。
――『東京おぼえ帳』の読みどころって何?
――巻末の鴨下信一さんの見事な解説が簡にして要を得てるよ。つまり、これは東京という都会の色と慾の生々しいドキュメントだって。懐古趣味のノスタルジックな本じゃあない。名優六代目菊五郎にふれて藝の話はちっとも出てこなくて、藝者と金の話に終始する、それも六代目がいかに気風がよかったかが髣髴とする書きっぷりで、惚れぼれとするね。
――六代目菊五郎って先代になるのね。
――そう。六代目の養子が七世梅幸、その子がいまの七代目菊五郎富司純子の旦那さんだね。菊五郎梅幸、いずれも音羽屋を代表する大名跡だ。六代目梅幸を取り上げた「梅幸怪談」は、新橋一番を謳われた藝者小文とのちょっと泣かせる話だよ。
――ほかにはどんな話が載ってるの?
――伊藤博文頭山満の話も面白かったねえ、どっちも藝者がらみだけど。小唄、長唄、清元に娘義太夫、それに相撲から食べ物の話まで、明治から昭和にかけての市中風俗がこれほど生きいきと語られてる本って、ちょっとほかにはないね。
 食べ物っていえば、大村彦次郎さんの『東京の文人たち』(ちくま文庫)って、これも最近出た文庫本に辰野隆の項があって、辰野、徳川夢声サトウ・ハチロー昭和天皇に召されて皇居で話した座談を「文藝春秋」が「天皇陛下大いに笑ふ」と題して掲載したらとてもよく売れたって書いてあるんだけど、大村さんはその座談の内容には触れてないんだ。何がそんなに可笑しかったのか。
――なんなの?
――それがこの『東京おぼえ帳』に書いてあるんだ。あんなに笑われた陛下を見たことがない、とお附きの人がいったそうだよ
――なによ? 意地悪しないで教えてよ。
――まあ、読んでごらん。345頁に出ているよ。鴨下さんは解説で、蘆江が東京生れじゃなくて地方出身者だったからこの本が書けたんだ、と書いている。卓見だね。蘆江は都会の「色と慾」を面白がってる。それが読む者に伝わってくるんだ。最後の江戸っ子戯作者だった緑雨なら、もっと皮肉な眼差しを向けただろうね。もっともキャラクターの違いもあるけれども。
 緑雨は『おぼえ帳』に、こう書きとめてるよ。「仮に明治を三段に別つべし。上の十年は越後地方の者多く、中の十年は美濃尾張の者多く、下の十年即ち当今にては、山陽道かけて九州の者多しと、或人言へり」。鉄道の開通によって東京はもはやかつての江戸とはまったく違った都会に変貌した。鉄道網の整備が人々のものの見方にどう影響を及ぼしたか、西洋についてはシベルブシュや高山宏さんの本に詳しいけれど、そういう日本近代史研究ってあるのかな。
 ともあれ、鴨下さんが解説の末尾に書いているように、『東京おぼえ帳』は「余白をいろいろ埋めてゆくと、ひどく楽しい読書が出来る」本だよ。


東京おぼえ帳 (ウェッジ文庫)

東京おぼえ帳 (ウェッジ文庫)