テキストのヴェネツィア



 旅行というものが好きではない。準備のことを考えるだけで意気阻喪し、うんざりしてしまう。かつて仕事でフランクフルトからパリ、アムステルダムへと旅したことは、以前ここで書いたことがある。ほかに外国へ行ったのは、二十代の終りに行ったマンハッタンと十年ほど前に仕事で行った上海、それだけである。日本では、本州から出たことがない。北海道も九州も知らない。子どもの頃、毎日眺めていた淡路島すら足をおろしたことがない。いや、先年、これも仕事絡みで八丈島で一泊したことがあった。山上たつひこのまんがで知った「八丈島のきょん」をじっさいに見ることができたのが唯一の収獲だった。それがわたしのささやかな「海外」旅行のすべてである。
 だから外国についての知見は、開高健のことばを借りれば、もっぱら「紙の上の外国」にすぎない。あれほどニューヨークについて書いていた植草甚一が晩年にいたるまで彼の地へ行ったことがなかった、といった類のことはよく目にしていた。だから(というべきか)、わざわざじっさいに出かけるまでもないと思っていた。
 かつて「旅」に関する小説や紀行文、エッセイなどを蒐めたアンソロジーを企画したことは、これも以前、ここですこし触れたことがある。けっきょく実現はしなかったが、企画を立てるためにそうした文章を浴びるほど読んだ。そのなかで、とりわけ目を瞠ったものに矢島翠の『ヴェネツィア暮し』がある。
 矢島翠の名は知っていた。先頃、うちにある雑本のおよそ半分を処分したときに映画関係の書籍はあらかた売り払ったが、わずかに残った本のなかにブニュエルの『映画、わが自由の幻想』がある。原題を「わが最後の吐息」という、ブニュエルが死ぬ一年前に刊行したこの自伝の翻訳者が矢島翠だった。ジャーナリストで映画評論家で加藤周一の妻でもあるといった程度の知識はあったが、一冊にまとまった著書を読むのはそれが初めてだった。一読三嘆し、これを収録できればほかに何もいらないとまで思った。そんなことをふと思い出したのは、雑誌「モンキービジネス」(vol.14)に上野千鶴子が書いた「テキストのヴェネツィア、読む快楽」を読んだからである。
 これは、既刊書から一節を抜き出し、それに解説を加えるといった「旧著再読」のセクションに書かれた文章である。旧著を選定し解説する筆者は毎号異なる。今回、上野千鶴子は矢島翠の『ヴェネツィア暮し』の序章「まちへ」を選び、如上のタイトルで解説文を寄せた。
 上野千鶴子はこう書いている。


  「ここに練り絹のような感触を持ったエッセイがある。読む悦楽をこれほど味わわせてくれる書物はない。(略)矢島さんの著作には、古いワインのような熟成感がある。たなごころでグラスをあたため、舌のうえでころがしながら嘗めるように一口ずつ味わう。読み終わるのが惜しいような、ゆっくりした時間が流れる。しごとの必要に迫られて速読が身についたわたしには、まれな読書体験だ。」


 むろん上野千鶴子のことだから、ただ讃辞を呈するだけではない。「本書は、ヴェネツィア旅行を計画しているひとには、なんの役にも立たない」という。なぜなら本書は旅行ガイドではないからで、それだけではなく、「ヴェネツィアから帰ってきた旅行者が、本書を読んだとしたら、じぶんはいったい何を見てきたのか、と悔し涙に暮れるだろう」と書く。だが、旅行ガイドとして読むことも、読んだあとで「悔し涙に暮れる」のも、いずれも「まちがっている」。つまり、「本書が描くのは、矢島翠というひとりの個性が経験したヴェネツィア」であり、「彼女の言語的遂行のそとには、どこにもない世界だからだ」。社会学者らしい専門用語が使われているが、「言語的遂行」とは要するに言語によるパフォーマンスといったところだろう。
 そして上野千鶴子は矢島翠のあざやかな「言語的遂行」の実例をいくつも挙げて注釈をくわえてみせる。


  「のっけから本書はこう始まる。


  ヴェネツィアは、天上の釣り人に釣りあげられて、アドリア海の奥の生簀に、そっと入れられた魚に似ている。


  だれがヴェネツィアについて、こんな比喩を使っただろうか。それだけで、読者は天上からの鳥瞰図から、急速にフォーカスするヴェネツィアのスポットに引き入れられる。
  このひとの比喩の卓抜さは枚挙にいとまがない。」


 以下、上野千鶴子の引用する矢島翠の文章については原文にあたっていただくとして、注釈のみを抜書きすると、


  「たとえば、静謐を愛する繊細な心情。」
  「その繊細さを裏切るような、辛辣でいくらかはすっぱな人間観察。」
  「度肝を抜かれるような比喩の卓抜さと、不敵な反骨精神。」
  「そして、社会学者顔負けの、飽くなき好奇心と、皮肉な社会批評眼。」
  「歴史、文芸、音楽、映画などに対する深い造詣と、それを生きた経験にする繊細で豊かな感受性。それに加えて辛辣さと皮肉、そして不逞な精神。それらをあますとことなく伝えるすぐれた言語感覚。」


 上野千鶴子がこれほど手放しで称讃するのはめずらしい。論証抜きで断言するのだが、上野千鶴子は矢島翠に「理想の姿」――といって悪ければ、本来ありえたかもしれない自己像をかさねているのである。文芸的感性と人文科学的知性の幸福な融合。文芸に魅了されながら学者の道に進んだ上野にとって、「共同通信社初の海外女性駐在員」として鋭敏な感性に基づいたジャーナリスト活動をする一方でみごとなエッセイを著す矢島翠はわが分身(embodiment)に見えたことだろう。「辛辣でいくらかはすっぱな人間観察」など、自己批評以外のなにものでもない。
 上野千鶴子は念押しするように、同じことをことばを変えて何度も繰り返す。


 「ヴェネツィアをなんど訪れても、矢島さんの「ヴェネツィア」には、けっして出会えない。(略)ここにあるのは、テキストのなかのヴェネツィア、矢島翠という稀有の書き手を得て、遂行的な言語行為のうちに生み落とされた、どこにもないヴェネツィアだからだ。」
 「(石牟礼道子の『苦海浄土』と)同じように、ヴェネツィアに行っても、矢島翠の「ヴェネツィア」には出会えない。(略)それどころか、実際に自分が訪れたヴェネツィアとの落差に、愕然とするばかりだ。だから、旅心をそそられるよりも、いっそ安楽椅子にすわって、書物をひもとくほうがましだ。それはテキストのなかにしか、存在しないからだ。」


 テキストのなかにしか存在しない「テキストのヴェネツィア」。わたしがじっさいの旅行よりも外国について書かれた文章を読む方を好むのは、おそらく矢島翠をはじめとするこうした文章にふかく魅了されてしまったからにちがいない。
 上野千鶴子はこの文章を、あたかも3・11以降に書かれたかのような矢島翠の「祈りのようなことば」の引用とそれへの注釈で閉じている。上野千鶴子の「テキストのヴェネツィア、読む快楽」は、さいきん読んだなかでもっとも心を打つ出色の文章だった。アンソロジーの「ヴェネツィア」の巻に、わたしは『ヴェネツィア暮し』からどの章を再録しようとしたのだろうか。もういちどこの本をじっくりと精読しなければならない。

モンキービジネス 2011 Summer vol.14 いま必要なもの号

モンキービジネス 2011 Summer vol.14 いま必要なもの号