期待と落胆――西村賢太論序説



 西村賢太の小説の特長は、まずなによりもその文体にある。西村の独特の文体を形成している要素のひとつに、よく指摘されるように「西村語」とでも呼んでみたい頻出する用語が挙げられる。これは西村の小説のほとんどすべてに共通する語法である。
 いくつか具体例を挙げると、町田康も西村との対談で指摘していた「慊(あきたりな)い」を始めとして、「はな(端)」「結句」「ほきだす(吐き出す)」「経(た)てる」(これは「経る」と使い分けられる)等々。芥川賞受賞第一作と銘打たれた近作「寒灯」には、こんな熟語も出てくる。
 「緩頬」「肯首」「此度(こたび)」「内憤」「嶄然(ざんぜん)」「悴(かじ)けた」「駭魄(がいはく)」「剥啄(はくたく)」「後架」
 こうした見なれない熟語や用語が効果的に鏤められ、独特の文体を形成するに与って力がある。「剥啄」はとりわけ耳馴れぬ熟語だが、意味は「訪問者の、足音や戸をたたく音。また、碁を打つ音。こつこつという音。」(「日本国語大辞典」)。用例は漢詩に見られる。「寒灯」では以下の一文に使われる。


 「数刻の後(のち)、剥啄の声も凍てついて途絶えた深更二時に至り、単独での年越し晩酌を終えた貫多は寝室へと入っていった。」


 時折り挿入される珍奇な熟語や如上の漢文脈による描写と、その一方におけるきわめてくだけた表現とのアンバランスが西村の文体の特徴をなしている。すなわち、こうした漢語・漢文脈による描写は文章の「格調」を整える一方で、おもに会話で用いられる世俗的な表現によって相対化され、文章にユーモアを醸し出す。一例を「寒灯」から引くと、貫多が同棲相手の秋恵を口汚く罵る場面。


 「おまえは何んと云う悪態をつく女なんだ。全く呆れてものが言えなくなるよ。土台おまえは、はなから訳がわからなかったんだ。正月に一人でくにに帰るとかよ……よくそんなんで、せんの男から手を上げられずに暮してこれたもんだな。一体、どんなインポ野郎とくっついていやがったんだ」
 厭がらせの為に前の同棲相手のことを嫌味っぽく持ち出してやると、途端に秋恵の表情には、サッと虚を衝かれたような駭魄の色が走った。


 西村の小説の主人公(貫多)が「ほきだす」悪態は絶品である。云い募るうちに自らを制御できなくなるかの如くエスカレートしてゆき、読者も読んでいて思わずはらはらする仕儀となる。「寒灯」の最後のシークエンス、先に引用した場面につづけて、


 「うるせえ、糞女! もう一度言ってやる。ここはぼくの家だ。てめえもぼくの家にいる以上、何も正月だけに限った話じゃねえや。すべては主人たる、このぼくの流儀に従ってもらうからな。それがイヤなら本当に出ていけ!」
 (交接を迫るも拒絶されて)「生意気云うな、穴女郎めが。こんなものは半ば義務だ」


 西村の小説の読者は、こうした「お決まり」のカタストロフへと徐々に高まって行く成り行きを、なかば期待を込めつつ見守ることになる。
 先に述べた珍奇な熟語とおなじく、否、それ以上に頻出するのが、主人公の性格を規定する「根が〜」といった表現で、「寒灯」に以下の用例がある。
 「根がひねくれ者にできてる」「根はひどく大甘にできてる」「根がワガママ気質にできてる」「根が北向き天神にできてる」
 こうした表現の多用は、小説において一般に忌避されるものである。なぜなら語り手による主人公の性格規定は「神の声」にひとしく、読者は無条件に受け入れざるをえないからである。元来小説における登場人物のキャラクターは、かれの発言や行動によって読者が読み取り構築してゆくものであり、語り手によるこの種の規定は最小限にとどめなければならない。そうでなければ、それは「かれは並ぶべきもののない英雄であった」のひと言でキャラクターを設定する神話とひとしいといわねばならない。だが、西村の小説において頻出する「根が〜」という表現はそうした「神の声」ではない。読者は、語り手に言われるまでもなく、主人公の性格が「ひねくれ者」で「大甘」で「ワガママ気質」で「北向き天神」(拗ね者、の意)であることなど先刻承知なのである。すなわち、かれの発言や行動によって読者の読みとったキャラクターを語り手が追認するといった作用をもち、それが繰り返されることによって、主人公のキャラクターがいよいよ「立つ」効果をもつのである。


 前述した西村の文体のもつユーモアは、主人公の「ぼく」という一人称に顕著である。こうした登場人物の一人称として一般に適切と思われるのは「俺」である。だが、「うるせえ、糞女! もう一度言ってやる。ここは俺の家だ」ではたんなる粗暴な男であり、この小説の特異なキャラクターは表現できない。激昂して相手を「てめえ」呼ばわりするときでさえ、つねに「ぼく」なのである。この一人称についてわたしは、中卒で現在は日雇いの仕事に従事しているが、中流ないしは上流家庭に育ち、根はお上品にできてる、という主人公を表現するためであると思っていた。むろんそうに違いはないのだが、それだけではないということを、石田千の『寒灯』評(「文學界」九月号)を読んで気づかされた。
 石田千はこの書評で次のように指摘している。


 「どこの家庭にも、だれかにきかれたら照れくさいことばがある。たとえば、表題作のなかでは、おつゆだった。」


 秋恵のつくった年越しそばの「おつゆ」が薄いと貫多は難詰する。だがそこに至る前段に伏線があった。
 秋恵は年に一度のことだからと「手間ヒマかけて」そばつゆをつくっている。鍋に投げ入れた鰹節の香りに、貫多は「瞬間、陶然と云った態」になる。それは「子供の時分に、江戸川区の生家の夕暮れどきに嗅いだと同じ匂い」であり、貫多に「郷愁」をいざなわせるものである。だし汁と返しを手作りする秋恵に、「これまでおつゆと云やあ、市販のものだったのに、今日はまた妙に大がかりなことをやるんだねえ」と「貫多の、かの家庭的ながらも本格的な年越し蕎麦への期待感は、一寸普通でないくらいに高まりきっていた」のである。
 その貫多の期待は、秋恵が「冷蔵庫から袋に入った、茹でた安物の蕎麦を取り出」したことではぐらかされる。さらに、スーパーで買った「すでに油が廻った出来合いの」天ぷらを目の当たりにし、「このあとの展開に、イヤな予感」がし始めていた。そこへ持ってきて、薄い「おつゆ」である。「これじゃ、殆ど白湯じゃないか」と貫多は憤る。「なら、そばつゆのパックを持ってきてくれよ」。注ぎ足そうというのである。だが買い置きはないと秋恵は応える。「何んだい、そばつゆぐらい常備しとけばいいのに」。貫多は秋恵に醤油を持って来させ注ぎ足してみるが、「単なる醤油汁のようなシロモノ」になってしまう。
 石田千は、この「おつゆ」から「そばつゆ」への変化を見逃さない。「そばつゆと呼ぶことで、貫多は一線をおしとどめようとするものの、雑に醤油を加えてしまった結果、世間さまをかなぐり捨てた嵐に飲みこまれる」。
 秋恵にむかって一方的に罵詈讒謗を投げかける貫多。西村の小説で何度も目にしてきたこの「家庭劇」を、石田は「台風の目のなかは、静か。薄いおつゆはすこしさざめいて、さしむかいのふたりを見あげている」と詩的に表現する。それにつづく一節にこの書評の本領がある。


 「かつてこの乱暴なわたくしに、いいにおいのする茶いろの汁を、おつゆと教えたおんな、さっき、わたくしのために台所に立っていたおんな。期待と落胆の歴史が、怒りをいくえにもそそのかし、貫多を踊らせつづける。
 おつゆおつゆと声をあげていた部屋に流れていたあたたかなだしの匂いは、しだいに冷えて沈んでいった。好きが嫌いになり、なんとも思わなくなる。秋恵の無私の愛は、死んでしまった。」


 「おつゆ」は貫多にとって母につながる幼い頃の「家庭」の記憶であり、居心地の良さの表象である。「おつゆ」の味は妥協をゆるさない。「おつゆ」が「おつゆ」でないとき、それは「そばつゆ」でしかない。「そばつゆ」は所詮「家庭(ハイム)」ではありえない。
 貫多の「慣れ親しんだもの」(ハイムリッヒ)を損なうものは、貫多にとっては「不気味なもの」(アンハイムリッヒ)として忌避されるしかない。そして、「二十四歳時以降の、およそ十年に及ぶ長の期間を、全く異性からの愛情に恵まれることなく虚しく経ててしまっていた」貫多が、「ようやく手に入れることが叶った女」との同棲生活、「外から戻れば部屋をぬくめて待っていてくれる女性があり、手作りのカレーが鍋にあり、それをいそいそと給仕してくれる彼女の優しき真心がある」家庭が、一瞬にして「不気味なもの」と化すのはひと匙の「おつゆ」の味によってである。
 いまではもう失われてしまった「家庭の居心地の良さ」(ハイムリッヒ)を貫多は求めて已まない。だが、それは決して取り返しのつくものでないことを貫多は知らない。いや、「どこまでもかけがえのない、何よりも大切な存在」である秋恵を足蹴にしても慊ず、駄々っ子のように知ろうとしないのである。あるいはそうではなく、知っているからこそ求めて已まないのかもしれない。


 茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ (山崎方代)


 「期待と落胆」――失われた梅干の種の幻影をもとめて、貫多はなおも踊りつづける。


寒灯

寒灯