行きなさい、とツグミが言った



 巨大な天災とそれにつづく出口の見えない人災の日々のなかで、その現実にかろうじて拮抗しうるのはわたしにとっては詩のことばだけだった。3月26日、わたしはここで大岡信の詩の一節を引いているが*1、そのころ座右において紐解いていたのは専らエリオットの詩集だった。たとえば、こんなことばの数々。


現在の時間と過去の時間は
おそらく共に未来の時間の中に現在し
未来の時間はまた過去の時間の中に含まれる。
あらゆる時間が永遠に現在するとすれば
あらゆる時間は償うことのできぬもの。
こうもあり得たと思うことは一つの抽象であり
永遠に可能態以上のものではなく
ただ思念の世界にとどまる。
こうもあり得たと思うことと、こうなってきたこととは
常に現在する一つの終わりに向かう。
跫音は追憶の中に木霊し
わたしたちの通らなかった廊下を
わたしたちの開かなかった扉の方へと向かい
薔薇園に抜ける。わたしの言葉も
このようにきみの心に木霊する。
             だが、なんのために
薔薇のポプリの壺に置いた塵を乱すのか
わたしにはわからない。
           他の木霊たちも
この園には住みついている。蹤いて行こうか。
疾く、と鳥が言った、見つけなさい、疾く、
その角を曲がって、と。初めの門を抜けて
初めの世界まで蹤いて行こうか、
鶫の声にのせられて、わたしたちの初めの世界まで。
             (―中略―)
それから、一塊りの雲が空をよぎり、ふと池は空虚(から)になった。
行きなさい、と鳥が言った、子供たちは繁みにいて
笑いをこらえながら身をひそめているから。
行きなさい、さあ、さあ、と鳥が言った。人間は
あまり多くの真実には耐えられないのです。
過去の時間と未来の時間が
こうもあり得たと思うことと、こうなってきたこととが
常に現在する一つの終わりに向かう。
                 (「バーント・ノートン」、『四つの四重奏』より、岩崎宗治訳)


                    * * *


 9月10日、野田政権の経済産業相が辞任した。辞任の理由をかれは「記者会見で『死のまち』と表現したこと、視察後の非公式な記者さんとの立った場での懇談で不信を抱かせるような言動があったととらえられたこと、この二つだ」と述べたと伝えられる(「朝日新聞」9月11日朝刊)。「不信を抱かせるような言動」について、朝日新聞は9月13日朝刊において、「在京新聞・通信社が報じた鉢呂氏の発言(抄録)」という比較対照表で示している。同紙の報道によれば、事態は以下のごとくであった(カッコ内は異同)。


報道陣に(あるいは、記者団、記者に、あるいはそのうちの一人に)、防災服を(あるいはその袖、または腕の部分を)すりつけるようなしぐさをし(あるいはすりつけて、または近づけ)、こう発言(あるいはこういう趣旨の発言を)したという。
放射能をつけちゃうぞ」(朝日)、「ほら、放射能」(読売)、「放射能をつけたぞ」(毎日)、「放射能をつけてやろうか」(日経)、「放射能をうつしてやる」(東京)、「放射能をうつしてやる」(産経)、「放射能をうつしてやる」(共同)、「放射能を付けたぞ」(時事)。


 この発言を最初に報じたのは「フジテレビとみられる」と朝日新聞は以下のように報じる。
 「9日午後6時50分過ぎ、鉢呂氏の失言関連ニュースの最後に「防災服の袖を取材記者の服になすりつけて、『放射能を分けてやるよ』などと話している姿が目撃されている」と伝聞調で伝えた。」
 目撃しただれかがフジテレビの記者に伝えたものと思われるが、その発言内容の細部は正確には新聞各社の伝えるもののどれとも異なっている。鉢呂氏のいう「非公式な記者さんとの立った場での懇談」、いわゆる「囲み取材」にフジテレビの記者は加わっていなかったようで(朝日新聞の取材に対し、記者が現場にいたかどうかは明言を避けている)、朝日新聞によればその他の報道機関のうち、産経新聞東京新聞テレビ東京時事通信の記者は「囲み取材」に加わっておらず「鉢呂氏の発言を確認した方法などは明らかにしていない」という。また、日本テレビ、TBS、テレビ朝日は「取材の過程については答えられない」としている。
 興味深いのは、「記者」に、あるいは「報道陣の一人に」と、故意にかどうかは不明ながら表現をぼかされている「記者」について、毎日新聞が「毎日新聞の記者に」と特定していることである。毎日新聞の記者は「囲み取材」に加わっていたはずだから当事者ということになり、したがって他社が匿名にしている「報道陣の一人」を毎日新聞の記者であると断定して差し支えないだろう。だとすれば、発言内容についても毎日新聞の「放射能をつけたぞ」が事実に近いという蓋然性が高くなるといえるかもしれない。
 いっぽう、「囲み取材」に加わっていなかった産経、東京、時事の情報源はといえば、産経・東京にかんしては「放射能をうつしてやる」と報じた共同通信であろうと思われる(東京新聞は、朝日新聞の記事で見る限り、共同通信と同一文である)。時事通信は、当事者である毎日新聞を取材ソースとしたのだろう。
 これらのことは、各社の記事を比較した朝日新聞の一覧表から類推されることであり、それぞれの新聞一紙を読むかぎりでは、その記事が直接取材して書かれたものか伝聞によって書かれたものかの判断はつかない。その意味で、同じ紙面に掲載された「逢坂巌・立教大助教(政治コミュニケーション)」の以下のコメントは当を得たものといえるだろう。
 「各社の報道では、実際に現場で何があったのか、事実関係がはっきりしない。自社の記者が見たのか、他社報道からの引用なのか明らかにするべきだ。
 情報源がはっきりしないニュースは読者や視聴者の信頼を得られない。」


 ところで、フジテレビの「放射能を分けてやるよ」をのぞいて、新聞各社の発言内容にかんする報道がおおむね軌を一にしているのに対し、こうして紙面をさいてメディアの問題に焦点を当てた朝日新聞のみが発言内容にある種の「具体性」を持たせているのが目を引く。当事者である毎日新聞が「『放射能をつけたぞ』という趣旨の発言をした」と間接話法で伝えるのに対し、朝日新聞は「『放射能をつけちゃうぞ』と発言」と直接話法で伝えている。日経新聞も「『放射能をつけてやろうか』と冗談まじりに述べた」と直接話法で表現しているが、「つけてやろうか」は話し言葉としての「肉感性」に欠けており、「冗談まじり」というなら「放射能をつけちゃうぞ」がより似つかわしい。それはいかにも「防災服をなすりつけるようなしぐさ」に見合った発言であり、視察後の言動としての「不適切さ」と発言者の「軽薄さ」とをより際立って読者に印象づける「レトリック」である。この記事を書いた朝日新聞の記者にそうした意図があったかどうかは知る由もないが、「つけちゃうぞ」ということばの「肉感性」が、読者にその場の状況をありありと想像させるのに寄与している。
 ある週刊誌の記事では、この「囲み取材」で、記者の一人から冗談まじりに放射能について訊かれ、その誘導に対してジョークで応えたというのがこの発言のコンテクストであったという。週刊誌の記事を鵜呑みにするわけではないが、いかにもありそうなことだと思う。コンテクストから引き剥がされたことばは受け手に自由な解釈を許容する。「放射能をつけちゃうぞ」は、いかにも煽情的である。
 こうした「ブラックジョーク」を時と所をかまわず発してしまう「脇の甘さ」(「非公式な記者さんとの立った場での懇談」という言い回しにかれの悔しさが滲んでいる)が一国の大臣という要職にある者にとって致命的であることは確かであるが(「死のまち」発言以上にかれの「軽薄さ」を印象づけることに寄与した)、「経産相とか政治家以前に、人間としてどうなのかという問題だ」と語ったという自民党石破茂政調会長の高飛車な発言には呆れた。「何さま」かね。


                      * * *


われらは空ろな人間
われらは案山子人間
寄りかかり合って
頭は藁の詰めもの。ああ!
われらの乾いた声は
みんなで囁いても
音低く、なんの意味もない
まるで枯野を吹く風のよう
あるいは破(わ)れたガラスを踏んで行く鼠の跫音
われらの乾いた地下室の


形のない姿、色のない影、
麻痺した力、動きのない身振り。


目をかっと見開いて
死のもう一つの〈国〉に渡って行った人たちよ
われらのことを――折あらば――思い出したまえ
迷える激情の魂としてでなく、ただ
空ろな人間として
案山子人間として。
               (―中略―)
こんなふうに世界は終わる
こんなふうに世界は終わる
こんなふうに世界は終わる
爆発ではなく啜り泣きで。
             (「空ろな人間たち」、『詩集(1909-1925)』より、岩崎宗治訳)*2

*1:id:qfwfq:20110326

*2:いずれもT・S・エリオット、岩崎宗治訳『四つの四重奏』岩波文庫、2011より