パリの異邦人――山田稔



 此処一月許り身辺多忙を極め、静軒居士が江戸繁盛記の序に記す「枕辺有る所の雑書中記するに堪ゆるの事を鈔し以つて悶を遣る」事能はず。然れば曾て録せし漫文をハアドデイスクより取出だし以つて其の悶を遣らしめん而已。



      パリの異邦人――山田稔                                          
                                 
 昨年暮れに出た島京子のエッセイ集『書いたものは残る――忘れ得ぬ人々』*1は、富士正晴高橋和巳島尾敏雄ら「VIKING」同人を初めとする文学仲間たちとの交友録で、その冒頭に登場するのが山田稔である。とはいってもこれは一九六一年の日記に出てくる、当時の京都大学学年一の秀才で(二番が高橋和巳、四番が杉本秀太郎であったという)、「なかなかのハンサムで美声」であった若き日の山田稔の印象的なスケッチであるけれども、わたしが思わず膝を打ったのは、著者がかつて追分の民宿でひと夏を過ごした折にたまたま同宿していた平岡篤頼の言葉に、である。
 平岡篤頼は彼の地でゾラの『ナナ』の翻訳に勤しんでいたのだが、ひと足先に『ナナ』の翻訳を刊行した山田稔に談たまたまおよび、「いやあ、うまいんだなあ、山田稔さんの“ナナ”は。実に自然で、いきいきしてて(略)下町のようすも、山田さんの手にかかると、まるで子供が初めて見たものに、感動するときのように、彫りが深くなっているんだもの。さすがだなあ――」と感歎しきり。さらに山田稔の創作についても、
「どう思います? たとえばさ、資質まるだし、という作家もいますね。エネルギー主義のような人もいる。山田稔さんのものは、そんな力みなんかと関係なく、至極モーションの少ない自然体なんだけど、どうしてあんなに、いきいきとしか云いようがない、人や街のたたずまいが描出されるんだろ。ぼくなんか、とてもおよばないなあ――」
 島京子は「山田さんが創り出した文体が、ものをいうのでしょ、それにフランス的エスプリ」と応えるのだけれども、この応答にいわば山田稔論のエッセンスが集約されているといっていいだろう。すなわち――、山田稔の描く人や街のたたずまいは実に自然で生き生きとしていて、それはかれの文体とエスプリのしからしむるところにほかならない、と。ようするに、山田稔論を試みるものはだれもがすべからくこのテーゼをいかに肉づけすべきかに腐心することになるのである。


 山田稔は一九六六年に初めてパリに滞在する。パリから航空箋で書き送り、「フランス・メモ」の総題で「VIKING」に掲載された作品を中心に纏められたのが最初の作品集『幸福へのパスポート』*2である。古い街のたたずまいやそこに暮す人々との交流をえがいた作品はいずれも小説ともエッセイとも断じがたく、山田稔自身あとがきで小説という形式にしばられずに自由に書いた、小説よりも「散文芸術」が念頭にあった、と記しているように、たんに散文と呼ぶのが似つかわしい。集中の一篇「残光のなかで」は、バルザックモリエールの墓のあるペール・ラシェーズの墓地、ゾラの墓があるモンマルトルの墓地を訪れたさいのささやかな挿話をプロローグに、ゾラの別荘で催された「ゾラをしのぶ会」の講演に招かれたエレンブルグのポルトレを印象深く描き出す。
 エレンブルグはなまりのあるフランス語で、ゾラとチェーホフとは異なるタイプの作家だが二人には共通点がある、それは二人とも真実の味方であったということで、社会的良心がなければすぐれた芸術家とはいえない、と熱を込めて語る。講演が終わり庭に出た「わたし」は、ひとり所在なげに立っているエレンブルグの姿をみとめ、かれのはいているだぶだぶのズボンに目を奪われる。


 「しかもそのズボンはだぶだぶであるだけでなく異常に長く、靴のかかとからはみでて、すくなくとも五センチは地面に垂れ下っているのである。(略)なおしばらく観察をつづけるうちに、わたしはこの老作家の無表情とみえた顔が、ときおりしかめられるのに気づいた。彼は不機嫌のようだ。なぜだろう。あの長すぎるだぶだぶのズボンのせいだろうか。いや、そうではあるまい。わたしには、エレンブルグがあの異様なズボンをはいているのはわざとのような気がしてくるのだった。彼の孤独な姿があらわしている何か依怙地なもの――あのズボンは、現代の細いスマートなズボンどもへの当てつけではないだろうか。」


 山田稔は、いや「わたし」はだぶだぶのズボンに、そう、あまりにも些細な事柄にかかずらいすぎていると思われるかもしれない。だが「わたし」の観察はさらに執拗をきわめ、老作家の表情に「なにか気味の悪いもの」を嗅ぎつけずにいない。それはかれの「きつい眼」からくるもので、その眼はスターリン時代の激しい権力闘争の場を切り抜けてきたかれの処世に由るものではないかと想像する。「わたし」がゾラに惹かれるのはエレンブルグとは異なる暗さがあるゆえにだが、エレンブルグもまた、チェーホフやゾラに惹かれるのは、「社会正義の味方云々ということよりもむしろ、ゾラのもつ暗さ、おそらくはあらゆる文学者に共通の暗さにエレンブルグ自身がひそかな共感をいだいているからではないだろうか」と思う。「わたし」の観察眼は、だぶだぶのズボンといった一見些細な事柄の背後に二十世紀の歴史の暗部を透かし見る。閑散とした庭にひとり佇むエレンブルグと、庭園の中央に立つ残光を浴びたゾラの胸像とをツーショットにおさめ、短篇は読者の胸に重い余韻を残してしずかに幕をおろす。
 アルフォンス・アレー(山田稔訳『悪戯の愉しみ』がある)の故郷を訪ねた「オンフルールにて」でも、「わたし」はアレーの表情に陰惨なものを読み取り、その地で出会った老画家の孤独に反応する。『幸福へのパスポート』へ寄せた埴谷雄高のことばがこの本の、そして山田稔の散文の特長を語り尽しているといっていい。


 「山田稔の作品のなかでは、窓も部屋も樹の枝も広場の石畳も、そして、ひとびとも、すべてが孤独のなかで他物から親愛と交感をもとめて、静かに息づいている。この屈折豊かで明晰な文章から、私達は、人生とは、事物とのまぎれもない関係であり、そしてまた、事物との関係をさらに越えようとする心のさまざまな動きにほかならないことを、繰返し啓示されるのである。」


 山田稔は、異邦の地で情緒の伝達がままならぬ孤独に屈しないためには書くことが必要だった、とあとがきに記している。「それはほとんど生理的な必要だった。書きながらわたしの身体はふるえた」と。そうした精神状態がことさらに他者の孤独に感応させたのだろう。書くことによって精神の危機を乗り越えたモンテーニュの『エセー』にどこか通い合うような気がするのもそのせいかもしれない。
 七九年七月、パリでの二度目の滞在を終えて帰国した山田稔は、一年後に雑誌「文芸」誌上で短篇連作「コーマルタン界隈」*3を開始する。ここでも「私」が出会い、仔細に観察する、パン屋のおかみ、ポルノ映画館の支配人、犬を連れた娼婦らは、だれもが胸の底にそれぞれの孤独を抱えた存在にほかならない。連載が終了した翌々月に同誌に発表したエッセイ「わが街コーマルタン」で、山田稔は次のように書いている。


 「この街では、住人のだれもが異邦人として、孤独をおのれの影のようにひきながら暮らしていた。一方では他人とのかかわりを慎重に避け、たがいに警戒し合ってすらいるそれらの人々が、しかし他方では、他人からの呼びかけをひそかに期待してもいることを、やがてわたしは知るようになった。」


 呼びかけ(call)に応答すること、そして書くことによってかれらを思い出し/呼び戻すこと(recall)、山田稔の散文が読む者に親密な感情を呼び起こすのは、おそらくはそうした孤独な者どうしのセンチメントの交流がひそやかに息づいているからにちがいあるまい。
                        (『國文學』平成二十年四月臨時増刊号掲載)

*1:『書いたものは残る――忘れ得ぬ人々』(編集工房ノア

*2:『幸福へのパスポート』(河出書房新社/新版・編集工房ノア

*3:『コーマルタン界隈』(河出書房新社/新版・みすず書房