すがれた老人――『マビヨン通りの店』を読む



 山田稔さんの久々の新刊『マビヨン通りの店』(編集工房ノア)が出た。リトルマガジン「海鳴り」「CABIN」に発表された文を中心に13本のエッセイを収録。半分以上をすでに発表誌で読んでいるにもかかわらず、こうして一冊にまとまれば発売日に書店へかけつけて購入しその日のうちに読まずにいられないのは、それが山田稔の本であるからにちがいなく、わたしにとってそうしたエクリヴァン(物書き)はそれほど多くはいない。
 巻頭の「富来」は、こういう文章で始まる。


 「加能作次郎を読返したくなって、尾崎一雄の『あの日この日』のなかに加能について何か大切なことが書かれていたのをふと思い出し、その箇所を探し出した。」


 荒川洋治が『文学が好き』(旬報社)というエッセイ集で書いているように、「なんの理由もないのに突然、/「ああ、今日は阿部知二を読みたい」/とか、/「中山義秀、読みたあい!」/という気持ちにおそわれる」ことがわたしにも時折りある。そんなときに思い浮かべるのは決まって“マイナー”な小説家で、かといって最近読んでもっとも面白かった短篇小説アンソロジー『したむきな人々』*1のようにマイナー過ぎてほとんど誰も知らないといったような小説家ではなく、日本文学全集なら五人で一巻になっていたり、その他大勢のひとりとして「名作短篇集」の巻に収録されていたりするような、ほどほどに知名度のある小説家なのである。いま、阿部知二中山義秀*2の小説を読む人はあまりいないと思われるけれども、かれらをマイナーと呼ぶのはいささか躊躇われる。日本文学全集なら一巻になっていてもおかしくない作家たちである。
 その荒川洋治の編纂で出た『世の中へ・乳の匂い』(講談社文芸文庫)の加能作次郎などは、まさに「今日はなんだか読みたい」といった気分になる作家として適度なマイナーさをたもっている。山田さんが「加能作次郎を読返したくなっ」たというのも、きっとそんな「気分」だったのだろう。
 ところで山田さんは「加能作次郎を読返したくなって」すぐに加能の作品を読んだのかというとそうではなく、まず尾崎一雄の『あの日この日』に手を伸ばしたのだが、それはその本のなかに「加能について何か大切なことが書かれていたのをふと思い出し」たからだという。この心のうごきは、わたしにも覚えがある。つまり、加能作次郎を読み返したくなったときに、加能作次郎とセットになって記憶されていた尾崎一雄のある言葉が浮上し、それを確かめたいという気持がつよく起ったということで、あるいはそれは尾崎一雄のある言葉を思い起して急に加能作次郎を読み返したくなったのかもしれず、それはどちらでも同じことであって尾崎一雄のその言葉の内容がどんなものであったかはまるで覚えていないということだってありうるのである(なんだか急に誰かの文体に憑かれたようだ)。
 「何か大切なこと」だったなと思いながら山田さんは尾崎一雄の『あの日この日』をぱらぱらとめくり(こういう時、だいたいこの辺りだったと見当をつけて――右の頁だったとか左の頁だったとか妙に覚えていたりするのはきっと記憶のメカニズムと関わりがあるのだろう――頁をめくると苦もなく見つかったりする)該当箇所を見つけだす。それは「自然主義文学の衰退がはじまった昭和初期のころ」のことで、愛人の経営する喫茶店ドメニカ(早稲田穴八幡の脇にあり、早稲田の学生や教員たちのたまり場だった)に同棲していた尾崎一雄が、店に来た川崎長太郎加能作次郎を誘って神楽坂の待合で遊興する。そのとき支払った金は尾崎が大学に収める学費で、ために卒業が遅れた。その話を後日、ドメニカで仲間たちに面白おかしく披露していると、店の客がすっと出て行った。それが加能作次郎だったという。
 尾崎一雄の『あの日この日』は持っているけれども、例によって何処に仕舞いこんだかわからないので「富来」より孫引すれば(仮名遣いはママ)、


 《「氏は怒ったのではなく、哀しかったのだらうと思ふ。怒られる方が、かなしまれるよりどれだけいいか判らない」》


 山田さんはつづけてこう書く。


 《当時四十二歳の加能作次郎インバネスを引きずるようにして出て行った姿が、「すがれた老人」として鮮やかに尾崎の胸に残る。
 私がおぼえていた「何か大切なこと」とは、このくだりだったのである。加能を読返したくなった胸の奥底に、この「すがれた老人」の「すがれた」の一語がひそんでいたような気がした。》


 「すがれた」は、草木が枯れるように、盛りを過ぎた様子をさす。「末枯れる」と書くが、秋の季語で「末枯」は「うらがれ」と読む。四十二歳といえば、いまなら働き盛り、ようやく中年と呼ばれる年齢に差し掛かったあたりだが、昭和初期ならもはや初老と呼んでもおかしくなかったかもしれない。かててくわえて、そのときの加能作次郎の挙措に、ある落魄した様子があったのだろう。尾崎はそれを見逃さず、適切に「すがれた」という言葉で表現した。山田さんがその一語に感応したのは、尾崎のその批評眼にたいしてだろう。加能はこの頃から晩年の長いスランプの時期を経て、五十六歳で長逝する。
 「富来(とぎ)」は加能作次郎の生地、能登半島の地名。二十数年前、山田さんは金沢を訪れたついでに、富来の小高い丘にある作次郎の文学碑をたずねたことがある。碑にはこう書かれていたという。


  人は誰でも
  その生涯の中に
  一度位自分で
  自分を幸福に
  思ふ時期を持つ
  ものである
         作次郎


 1939(昭和14)年に発表された作次郎の小説「父の生涯」の一節から採られたもの。その年の11月に結婚した長女・芳子に、この言葉を色紙に書いて贈ったという。亡くなる二年前のことである。小説では、その後の章にこう書かれている。
 ――併しそうした幸福も長くは続かなかった。

*1:『ひたむきな人々』id:qfwfq:20100207につづく書肆、龜鳴屋の新刊。あの藤田三男さんが「読んだことのない小説ばかり」と仰ったほど超マイナー作家のアンソロジー

*2:わたしはなぜかこの人の全集――といってもたしか全七巻ぐらいだったと思うが――を持っている。なぜかは不明である。