山田順子ははたして「美人」か


 ――島崎藤村は要らない本を海に捨てたそうである。
 ほんとですか島崎先生。なんと御無体な。


 「先生は本が少したまると、品川沖まで小舟でこいで行って、水葬にして来られたのである。」透谷全集の編纂で知られる文学史家の勝本清一郎が随筆集『こころの遠近』所収の「藤村の憶い出」で伝えるところで、これを引用しているのは鈴木地蔵の「尻子玉――勝本清一郎の行蔵」、新著『文士の行蔵』の巻頭に収められた論攷である。
 行蔵とは論語にある言葉で出処進退の謂。著者は勝本のエッセイから藤村と勝本とのつながりの探索に乗り出し、その探索行のあれやこれや――林達夫の言葉を借りれば「てんやわんや」――を、年刊誌「文游」に四年越し、三回に亙って綴ったのが「尻子玉――勝本清一郎の行蔵」で、「島崎藤村は要らない本を海に捨てたそうである」はその冒頭の一文である。
 藤村は寄贈された不要の本を古本屋に売り払うのを潔しとせず、かといって他人にあげるわけにもゆかず、思いあまって海に捨てたのだという。藤村は紙袋にいっぱい本を詰め込んで自分でえっちらおっちら港まで運んだのだろうか。まさか持ち舟ではないだろうから小舟をチャーターしたのだろう。舟をこいだのは藤村か船頭か。謎は深まるばかりである。
 わたしも以前不要の本を両手いっぱいの紙袋に詰め込んで近くの新古書店に運び込んだことがある。コインを三枚ばかりと、古くて引き取れないという本十冊ばかりを手にして悄然と帰途についた。一か月ほど後にその店を訪れると、わたしの処分した本の一冊が本棚に並んでいた。手に取ると裏の見返しに千円の値札が附いていた。
 引越しする際に自宅へ買取りに呼んだことがある。市中で古くから商いをする由緒ある古書店である。段ボール箱五つ分ぐらいの本を床に積み上げて待った。車でやってきた店主は本の山に一瞥をくれると中身を改めることもなく一括で五千円ですと言い放った。そのなかには一冊で五千円以上の古書価のする本も何冊か含まれていたはずである。足許を見られたというわけだ。追い返すわけにもゆかず一切合財お持ち帰りいただいた。古書店で本を買うのは簡単だが売るのは難しい。いっそ海に捨てると清々するかもしれない。


 閑話休題
 「尻子玉――勝本清一郎の行蔵」は別に古本屋の話ではない。近代文学の厖大な資料を蒐集した勝本の小説家・文学史家としての業績と聊か特異な人となりとを考究した評論で、著者の勝本にたいする態度も、あるときは軽視するかと思えばまたあるときは称賛に傾き、と一定しない。しかしその評価の揺れがある種の臨場感となって読者を惹きつける一因ともなっている。
 プロレタリア文学系の文藝評論家であり、一方、長唄をよくする代々の江戸っ子であり、永井荷風の元夫人の愛人であり、徳田秋声の愛人・山田順子とも同棲した勝本清一郎。その勝本の「“わからなさ”に魅かれて著作を読みすすめ」た著者は、最後にいたって「その学殖に感嘆したが、何よりも勝本の単独行の精神に気持をゆさぶられたと告白したい」と書きつける。「戦前も戦後も勝本は尻子玉を抜かれた“ふぬけ”なのでは決してなかった。ただただ私の不明を恥じるばかりである」と。
 勝本の文藝評論をひとつとして読んでいないわたしに事の当否を論じる資格はない。ただ一点、興趣を覚えたエピソードをここに書きとめておきたい。
 勝本は『仮装人物』に描かれる山田順子像(作中では葉子)に甚く不満を持っていたらしい。秋声は順子の「ほんとうのいいところを小説の面でつかんで生かしてやっていない」と。その一方で順子を「だれが見たって、文学的才能のこればかりもある人ではないし、まただれが見ても美人でもなんでもない人ですよ」と辛辣に評する。野口冨士男は勝本のこの発言に「ほとんど惘然(ぼうぜん)とした」という。「美人であったことまで否定して秋聲の文学を批判している勝本さんの見解には、順子さんとの愛をまっとうしなかった男性の無恥と報復は感じても、冷静なるべき文芸評論家ないし文学史家としての理性を疑わぬわけにはいかない」と憤懣やるかたない面持ちである。
 勝本清一郎の理性――むしろ品性といいたいけれども――は差し当ってどうでもいい。モンダイは、はたして山田順子は「美人」であったのか――。
 著者の引用する吉屋信子の『自伝的女流文壇史』でも「浮世絵からぬけ出して来た日本国産美女のおもかげそのものだった」とあり、つづけて「山田順子が“美人”であったことは否めない」と著者も同意している。
 手元に山田順子の『女弟子』がある。中篇「肉体の悪魔」や「若き日の私と秋声先生」「秋声の面影と手紙」といった秋声にまつわる私小説や随筆を蒐めた本で、昭和二十九年刊、鎌倉の「ゆき書房」というところが版元になっている。口絵に「作者近影」として和服姿の山田順子の肖像写真が掲げられている。パーマをかけた頭髪に、八の字眉、窄めた口許に微笑が浮んでいる。なぜか指に火の点いてない紙巻き煙草を挟んでいる。ソファに腰掛けているが、吉屋信子のいうように「背丈のすらりとした長身」を窺わせる。お顔はといえば、うーむ、微妙ですね。口絵写真は鎌倉の写真館で撮影されたもので、ライティングを施し、仕上がりにそれなりの修正を施したと見れば、素顔は「美人」と呼ぶにはややつらいものがある。もっとも山田順子は明治三十四(1901)年生れだから、このとき御齢五十三歳、年相応の中年女性ではある。本文中に二人の娘と一緒に写った三十六歳当時の写真が掲載されているけれども、忌憚なく申せば十人並みというところか。上の娘は母親似の大柄な肢体でエキゾチックな風貌なので、秋声が血道を上げていた頃の順子も「日本国産」かどうかはともかく美女と呼んでいい面立ちであったかも知れない。江藤淳にいわせれば、順子は老作家がはじめて出会った「近代」であった、ということになる。


 ≪肉感の次元でしか受容できない「近代」とは「近代」の「仮装」にすぎない。そして秋声の「仮装人物」の価値は、ほかならぬこのことを「近代」の側からではなく、「日本」の側から、つまり「目眩しい光」のあたらないじめついた路地裏の側から残酷に描き切っているところにあるものと思われる。この点でこの小説はまさに空前絶後である。≫


 竹久夢二菊池寛をはじめとして、「あの婦人に対して罪ある人は、僕が知っているだけで、文壇人で十人近くいますよ」(勝本)というほどの“多情多淫の美少婦”(杉山平助)の本当のポートレートが見てみたい。


文士の行藏

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