唖然、茫然、憮然



 文化庁の国語輿論調査で、「憮然」や「檄を飛ばす」の意味を穿き違えているものが被調査者の七割以上にのぼったそうで、朝日新聞天声人語子がこれをさっそく話題にして≪「日本語の乱れ」と嘆く向きもおられよう。だが、これらはもはや「誤」が「正」になった感がある≫(7月26日朝刊)と書いている。TVなどでスポーツ選手にコーチが活を入れている場面をよく見るけれども、「檄を飛ばしている」とアナウンサーがコメントしても大方の視聴者はもはや怪しむまい。「正」になったかどうかはともかく悪貨が良貨を駆逐するのは世の習いである。檄を激励の省略形かなにかだと思っているのかもしれない。
 しかしそれに続けての一文≪「憮然」から想像するのは仏頂面であって、失望の顔ではあるまい≫は、さて、どうだろうか。七割以上の人たちが「憮然」の意味を「腹を立てている様子」と受け取ったそうだが、「憮然」の辞書的な意味は天声人語子のいうように「失望してぼんやりする様子」であって、『新明解国語辞典』(第五版)にも<「憮」は失意の形容>として、<(1)自分の力に余るという表情で、ためいきをつく様子。(2)意外な出来事で、ぼんやりする様子。暗然。>とある。近頃、なにかにつけて憮然とすることが多くて、年のせいか、それともこちらが時世に合わぬのか。大方その両方であろうけれども、そんなとき仏頂面をして「やれやれ」と口のなかで呟いている。当方の無愛想は生れつきだが、仏頂面は必ずしも「腹を立てている」わけではないのだ。
 そういえばその前日の朝日新聞夕刊に鶴見和子さんの「病床日誌」出版の記事が出ていて、妹の内山章子さんの伝えるところによれば、和子さんは臨終の数日前に弟の俊輔さんと次のような会話を交わしたという。


 「『死ぬっておもしろいことねえ。こんなの初めて』と姉がいい、兄は『そう、人生とは驚くべきものだ』ですって。2人で大笑いしてるの」


 和子さんは自分に死期の迫っていることを悟ったのだろう、辞世の歌を詠み、形見分けを指示したけれども、翌朝まだ生きていて「昨日の遺言はお笑いね」「私の計画通り死ねなかったワ」といって、その夕刻、点滴を忌避したという。死の間際までフモールを忘れない鶴見和子と、その言葉に機智をもって返す鶴見俊輔と。知性というものの最上の在り方がこの一瞬に現れているように思う。
 辞世の歌ではないけれども、その一か月ほど前に和子さんの詠まれた歌が同記事に引用されている。


 昨日の夜死ぬかと思え目覚むれば 朝の日は差すまだ生きてあり


 この歌の「昨日」に、「きど」の振り仮名が振られているのを見て我が目を疑った。昨日(昨夜)を「きそ/きぞ」と読むのは、少なくとも新聞社の校閲レベルでは常識に属すると思っていたのだけれども当方の認識不足であったか。誤植のたぐいを批難するのは天に唾する振舞いだが、唖然とし、茫然とし、そして憮然とした。