終戦と美的正義



 今日、八月十六日の朝日新聞朝刊の紙面は北京オリンピックの報道一色だった。他紙もおおかた大同小異だろう。わずかに中面で政治家の靖国参拝の記事が申し訳程度に載っていた。戦後六十三年か。「戦争を知らない子供たち」と歌ったわたしの兄姉の世代のアイロニーも賞味期限が過ぎたかのようである。柄にもなくそんな感懐を抱いたのは、頃日、故あって親しんでいる桶谷秀昭の著書の影響かもしれない。
 学生の頃、ふたりの批評家の著書を耽読した。ひとりは花田清輝、もうひとりは吉本隆明花田清輝著作集(未来社)と吉本隆明全著作集(勁草書房)とを書棚に隣合せに並べ、かたみに読んでいた。こう書くとひとは訝しむかもしれない。ふたりは論敵で、なかんずく花田は吉本にこてんぱんにやられた批評家ではないかと。当時、花田は早すぎる晩年を迎え、雑誌に時折り小説や寸評を発表する程度で、盛りを過ぎた文筆家と看做されていた。一方の吉本はといえば、全共闘運動にはシンパシーを示さなかったが、学生たちに少なからぬ読者を持っていた。わたしの周囲に花田を読んでいる者は皆無だった。わたしはひとりで花田を読んでは深く頷き、吉本を読んでは深く頷きしていた。どちらが正しいかなど関心の埒外だった。
 わたしは花田から思考の柔軟さのようなものを学び、吉本から思考の原則を守ることの大切さを学んだように思う。ふたつは時に対立し、時に相互に賦活する精神の営みである。花田流にいえば、楕円のふたつの焦点のようなものでなければならない。学んでそれを生かし得ているかどうかは疑わしいが、いずれも尚わたしにとって大きな課題でありつづけている。
 花田については以前ここで少し触れたことがある。吉本についてひとつだけ触れるとすれば、かれはひとをイデオロギーによってのみ裁断しない人物であるということだろうか。思想的立場を異にする者であっても、かれが、あるいはその書きものが信頼するに足るものであるならば吉本は断乎として支持をし、かつ浮薄なものは斥けた(その点においては花田にも共通するところがあった)。
 かつて谷川雁村上一郎内村剛介桶谷秀昭といった人たちの著作に親しんだのも(どちらを先に読んだかはもはや定かでないが)、かれらが吉本の信をおく批評家であったからにちがいない。吉本は、60年安保後に谷川雁村上一郎とともに「試行」を始め、やがて単独誌として三十年以上発刊を継続した。桶谷秀昭は「試行」に保田與重郎論を寄せ、村上一郎とともに始めた「無名鬼」に伊東静雄や北村透谷についての文章を書いた。桶谷秀昭村上一郎もともに日本浪漫派の眷属である。
 わたしは日本浪漫派にも恋闕の情にもシンパシーを持たぬが、桶谷が『日本人の遺訓』(文春新書)に引く三島由紀夫のことば――「ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日のわれわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒す術を知らぬ」は、三島の心中に即してわからないではない。三島が割腹自殺を遂げた際、時の首相が三島は「気が狂った」と言い、ある文学者が「病気」と言ったという。桶谷によれば「もう一人の文学者は、『あなたは日本の歴史を病気と言ふのか』と反問した。小林秀雄である」。三島が譬い割腹マニアであったとしても、かれの胸中を吹き抜ける風のものさびしさをゆめ疑ってはならぬ、とわたしは思う。
 村上一郎の三島論の一節にこうある。


 「武断を知る者のみがまことの愛恋を、――いいかえるなら雷鳴の惨烈なる慟哭を知る者のみが、春雨のひそかな歔欷の吐息を、エアレーベンし得るのだという、ただそればかりのことわけ(四字傍点)さえも忘れかけているのが戦後であるとするならば、明日の抒情の高きを断乎保守せんと心誓する者にしてゆめ、戦後になじんではならないのである。」


 この浪漫者の慷慨をゆめアナクロニズムと嗤ってはならぬ、とわたしは思う。


 桶谷の『人間を磨く』(新潮新書)に「男と女のあひだ」という一文がある。北村透谷の『厭世詩家と女性』の一節を引き、恋愛とは「実世界と隔絶したもうひとつの世界で、そこで、心と心が虚飾なしに向き合ひ、相手の異性といふ鏡に映つた自分をはつきりとみる」ことであると桶谷は言う。「だれでもさういふ自己を知るといふ認識を、おこなふ。それから、なごやかな眼で相手をみる。また、相手のなごやかな眼に逢ひ、人はひとりで生きて行けないことを感じる。人が人を知るのは、なごやかな眼によつてであり、つめたい観察眼ではない。」
 わたしは桶谷とちがって恋愛の相手を異性に限定する考えにくみしないが、「人が人を知るのは、なごやかな眼によつてであ」るという認識を貴重なものと思う。桶谷の文章では、総じて「無用の文章」「泡沫のやうな、はかない文章」と桶谷の謙遜していう随想をわたしは好む。そうした文章を蒐めた『天の河うつつの花』(北冬舎)に、癌で亡くなった配偶者について書かれた文章が何篇か収められている。「茶碗と美的正義」と題された一篇の末尾を、少し長くなるがそのまま引用しよう。


 「遺品を整理してゐると、おびただしい茶碗が出てきた。闘病生活の間にも茶はつづけてゐたから、折に触れて茶器を買ふのは不思議ではないが、それにしても何か憑かれたやうにそれらの多くの茶碗を求めつづけた心を思ひ遣つて、胸が痛んだ。つまらない安物もずゐぶんある。買つたまま、一度も使はなかつたらしいものもすくなくない。金銭のことは一切家内にまかせてゐたから、衝動買ひもふくめて、好きなだけ買つていたのであらう。
 生きてゐれば喧嘩になるところだが、いまはかへつてなつかしさが湧く。日頃は能天気にみえるくらゐおほらかな性格の女が、わが余命の限りを思つて茶碗を買つてゐる姿を思ひ浮べると、「やつてくれたなあ」といふ苦笑のあとから、さういふ行為に美的正義と名づけたいやうな思ひが湧くのである。」


 この一節を再読して、胸に熱くこみ上げるものがあった。齢のせいかも知れぬ。齢のせいだとすれば、齢をとるのもまんざら捨てたものでないと思わぬでもない。おびただしい茶碗を前にして「美的正義」とそれを呼ぶ感受性は信ずるに足る。なにも感じぬものは美とも正義とも無縁の輩だろう。桶谷秀昭の著書を繙読する機縁を与えてくださった方にふかく感謝した。