さみしくてあたたかかりき
書店で雑誌を立ち読みしていたら、瞼の奥が急に熱くなり忽ち文字がぼやけた。これはいけないとあわててレジに急いだ。家に持ち帰って読みながら幾度も目頭をおさえた。
翌日の朝日新聞朝刊にこの雑誌、「文藝春秋」十一月号の広告が掲載されていた。全五段広告の半分のスペースをその記事、永田紅さんの「逝く母と詠んだ歌五十三首」が占め、多くの読者から読後感をしたためた投書があったと伝えていた。亡くなった河野裕子さん、夫の永田和宏さんとかねてより多少の関わりがあり、また同じ病いの身内を抱えているという事情を抜きにしても、近年これほど胸を打つ文を読んだ覚えはない。永田紅さんの無駄のない抑制のきいたみごとな散文が与って力のあることは言うまでもないが、それとともに、歌の力というものを改めて感じさせられた。相聞歌にせよ挽歌にせよ、千年以上の伝統の力が、いまここで詠まれている歌に間違いなく底流している、と今更のように実感させられた。
あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき
河野裕子さんが亡くなる前日に口述筆記で詠んだ一首である。枕元に手帳を置き、薬袋やティッシュペーパーの箱にも歌を書きつけたが、もう鉛筆を握る力もなくなっていたという。
さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ
紅さんは《本当にこの世は、「さみしくてあたたかい」。「あたたかくてさみしい」でなかったことが家族にとって慰めである》と書いていられる。枕元に集まった《父と兄と私、一人ひとりの頭を抱いて撫でてくれた》母が、夫と息子と娘に「この世で会うことができた」と言い、そのことを幸せだったと言う。いくら家族や友人に恵まれたとしても、人は生まれるときと死ぬときはひとりである。人生はさみしいものだが、あなたたちに会うことができてあたたかかったよ、そう言って死ぬことのできた河野裕子はほんとうに仕合せだったと思う。
なんにしてもあなたを置いて死ぬわけにいかないと言う塵取りを持ちて 和宏
俺よりも先に死ぬなと言ひながら疲れて眠れり靴下はいたまま 裕子
自らの死に際しても妻は夫のことがなによりの気掛かりである。だがそう口にしつつ、手にはなぜか塵取りを持っている。夫は夫で妻に死ぬなと言いながら着替えもせずに泥のように眠るしかない。それが、さみしくてあたたかいこの世というものの実相である。
大泣きをしてゐるところへ帰りきてあなたは黙つて背を撫でくるる 裕子
夫にできることは黙って背を撫でることだけなのだ。できることなら代わってやりたいと思いながら。妻は、もう泣くまい、泣き顔を見せはしまい、と思う。
一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため
しやうもないから泣くのは今は止めておこ 全天秋の夕焼となる 裕子
癌とは残酷な病いだ。あと何ヶ月、何日で必ず死が訪れる。誰もがそれを知り、かたみにいたわりつつ、だが口には出さず、その日の来るのをとめることもできずに日を過すほかはない。
きみがゐてわれがまだゐる大切なこの世の時間に降る夏の雨 和宏
死ぬな 男の友に言ふやうにあなたが言へり白いほうせん花
生きてゆくとことんまでを生き抜いてそれから先は君に任せる 裕子
亡くなる一年ほど前、昨年五月に行われたインタビューで河野裕子は「今が一番いい」と語る*1。転移がわかり化学療法をおこなっていた時期であるから、なにほどかの覚悟もしていたのだろう。
《なんにも起こらないで、ただその日が過ぎていくということの、季節の移っていくということの、それがとても大事。
今年のサクラが本当に美しくてね、それが散って青葉が始まって、どうしてこの世ってこんなに美しいんやろうと思って。もうなんて言ったらいいのかな、茫然としちゃうんですよね。》
おそらくそれは病いを得たことによって、それゆえに際立って感じられる思いにちがいない。季節の過ぎゆきが不思議で、美しい、と語るその言葉に、読者であるわたしは茫然とするしかない。
《時間が過ぎていくことの不思議な感じというのは、自分を置きながら時間だけが過ぎて行って、季節が移っていくっていう、そういうことがどうしてこんなに美しいんだろう。ほんとうに茫然とするほど美しいんですよ。
今年は思いきりコスモスの種をいっぱい蒔きました。庭中コスモスだらけにしようと毎日世話をしています。》
コスモスの好きな人だった。永田和宏の主宰する「塔」に加わるまでは、宮柊二の「コスモス」に入会していた。
家を建て替えるために仮住まいに移った矢先に転移がわかったという。建て替えた新しい家には一年半過し、庭の見える寝室で息を引取った。
《暑い盛りで、庭のコスモスが繊細な葉を茂らせ、早咲きの白やピンクが何とか小さな花を数輪咲かせたのを枕元に飾ったところだった。》
庭一面にコスモス育て母の病む日にち薬の効かざる病 紅