言葉のユートピア――塚本邦雄論序説(1)


 戀に死すてふ とほき檜のはつ霜にわれらがくちびるの火ぞ冷ゆる
 おおはるかなる沖には雪のふるものを胡椒こぼれしあかときの皿
 馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
                           ――「花曜」、『感幻楽』より


 塚本邦雄が生涯に遺した膨大な短歌のほとんどすべてが言語実験の賜物、塚本の茂吉論の言葉を借りれば「破格大胆な冒険」といふべきであるが、なかんづく実験の意思を顕はにした歌集を一冊挙げるなら『感幻楽』であるといふのは衆目の一致するところだらう。塚本自身、歌集の跋にかう記してゐる。


 「第五歌集『緑色研究』のをはりに、言葉の無可有郷への首途を約してから、四年を閲した。かへりみて時のみが流れ、行きついたのは、いまだ言葉の修羅の域であつたといふ思ひが頻りである。」


 言葉のユートピア。おそらくそれは字義どほりこの世に存在せぬ幻の楽土の謂ひであらう。かるがゆゑにそれを冀求する思ひは耐へがたいまでに熱いものとならう。もしそれを垣間見ることができたならばこの歌集に「観幻楽」の名を与へたものを。だが「つひにして幻を感ずるにとどまつた」と塚本は切歯する。塚本の冀求は、うへに掲げた三首、わけてものちに塚本の代表作と目されるにいたる絶唱、馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまでをもつてしてもなほ慊りぬものを覚えさせるほど至高の高みをめざされてゐたといふべきだらう。
 『感幻楽』集中「花曜」一聯は「隆達節によせる初七調組唄風カンタータ」と副題が添へられてゐるやうに、「梁塵秘抄閑吟集、隆達小唄、わけても田植草紙、その中・近世歌謡群の緑野を彷徨した、ながい一時期の習作」であると塚本はいふ。俗謡はともあれ、初七音律の実験はたとへば第一歌集『水葬物語』の、


 しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり


に夙に目覚しいばかりに完成されてゐよう。音数律の実験こそ塚本が現代短歌に寄与した、それゆゑに夥しい亜流を輩出することになつた当のものではなかつたか。高橋睦郎塚本邦雄全集第一巻の月報で、かう書いてゐる。


 「邦雄が登場して歌の歴史におこなったことは何か。(略)短歌五七五七七音律の上下に亀裂を入れ、二つが危い糸で繋がるのみの緊張感を齎したことだ、と思う。/ここで私たちは容易に定家によって完成されたとされるいわゆる疎句仕立てを連想する。邦雄が現代の定家と言われる本当の理由はここにあるのでなければなるまい。新古今時代の疎句仕立ては古今集以来の七五調の結果としての三句切れ、つまり上の句・下の句の発生から生じている。しかし、邦雄の疎句仕立て、むしろ超疎句仕立ての上の句・下の句は五七五と七七に限らない。五七と五七七、五七五七と七、五と七五七七、さらに五音や七音の中での切れもありうる。」(「超疎句仕立てをめぐって」)


 「五音や七音の中での切れ」すなはち句割れ、句跨りといつた技法は塚本を先蹤とし、現代短歌に於いてすでに技法とも呼べぬまでに一般化してゐよう。たとへば、


       アッササン        たつけい
 囚はれし暗殺者廢墟の獄に磔刑の十字架腐りゆく


 稚拙極まりないが、これは私が二十代の砌、塚本邦雄の短歌に出遭ひ熱に浮されたやうに初めてつくつた歌擬きである。初学、否、初樂にして初句九音句跨りの破調であるのが塚本の影響のいかに大きいかを証し立ててゐよう。
 その塚本の疎句仕立て、「花曜」の初七調の実験に契機を与へたのが「一茎の花」(id:qfwfq:20070325)で書いた本田一楊の歌であつた。


 いのちたとへばちりぬるきはも散る花の綺羅しづもりてあらばさやけみ
 たれかわれらの胸揺り歌ふいやはてのかなしみの日の若葉の歌を


 塚本は書いてゐる。


 「「花曜」の初七調はもとより私の独創でも新発見でもない。思へばその再認識の契機こそ、本田一楊らとの出会ひにあつた。「たれかわれらの」の七音を、こころみに「たれかわが」の五音に改変した時、このゆらめく言葉の環は忽ち断ち切られて、単に感傷的な三十一音の謳ひ文句がのこされるのみである。初七は桂冠にして荊冠、歌の重さと豊かさを、予告すると同時に支へるべき、栄華と処罰を内包してゐるのだ。」(「流觴」)

 
 この一音にひそむ歌の秘密、若き日の塚本邦雄がめざした「黄金律の変革」の試行を、塚本に先行する歌人たちの営為のなかに探つてみたいといふのが本論の意図である。言葉の無可有郷への旅の記録をゆるゆると書き継ぐことにしたい。