『洛中書問』――翻訳詩の問題(2)
1
詩の翻訳は詩であるべきか否か。この問題をめぐって上田敏の訳詩を批判した折口信夫に篠田一士が加担したのは、一に戦時下に行なわれた吉川幸次郎と大山定一との往復書簡、『洛中書問』に係ってのことである。
篠田一士の『現代詩大要 三田の詩人たち』は、慶應義塾・久保田万太郎記念資金講座『詩学』における講義を「三田文學」に連載しのちに書籍化したものであり、講義が行われたのは一九八四年、篠田のあまりにも早すぎる死の五年前のことである。篠田が折口と同じく「原詩を尊重する」という考えをもつにいたった切っ掛けは、それよりおよそ四十年前のある雑誌との出合いにある。
あと半年余りで敗戦を迎える昭和二十年の冬、勤労動員に駆り出されて工場で飛行機の部品を作っていた旧制高校一年の篠田は、工場からの帰り道にふと立ち寄った古本屋で一冊の雑誌を手にする。それは新村出の主宰する「学海」という雑誌で、そこに掲載されていた「洛中書問」に強い衝撃を受ける。「これだ、これだ、ここにこそ、我が行く道があるという直観が、その夜ぼくに突如おそいかかってきた」と、篠田はのちに吉川幸次郎全集の月報にその出合いについて記すことになるのだが、その文章にはあとで立ち戻ることにして、まずは『洛中書問』についてその概要をしるしておこう。
2
中国文学者の吉川幸次郎とドイツ文学者の大山定一はともに一九〇四年生まれ、同じく京都大学で学び教鞭を執ることになるが、二人が相識ったのは太平洋戦争勃発の頃、吉川は東方文化研究所に、大山はドイツ文化研究所に勤め、それぞれが催す杜甫やヘルダーリンの研究会に互みに出席する間柄であった。二人の交わす文学談、吉川のいう「暢談」を編集者が識るところとなり、「学海」に往復書簡が掲載されることになる。「洛中書問」と名づけたのは吉川である(「書問」とは吉川によれば「何くれとない手紙を意味するところの、やや気どった漢語」である)。吉川が三通、大山が四通、都合七回の掲載が終ったのは昭和十九年末、戦後の昭和二十一年に「学海」の版元であった秋田屋から刊行され、吉川の全集(第十九巻)に収録され、昭和四十九年(一九七四)に二人の論文を併録して筑摩叢書より『洛中書問』として刊行された*1。
その一一を精しく紹介する余裕はないが、約めていえばテーマは外国文学研究と翻訳であるといって大過はなかろう。吉川は「翻訳というものは、要するに方便であり、童蒙に示す為のもの」であり、「外国文学研究の正道は、あくまで原語についてなされるもの」であるとする。方便ならば「原文のもつだけの観念を、より多からずまたより少からず伝える方が、童蒙にはむしろ便利でありますまいか」と吉川はいう。対して大山は、翻訳と外国文学研究とが「何の深い関係もない」ことは認めるが、方便以下については承服しがたいと反問する。翻訳とは通弁と異なり、「今日当然書かれていなければならぬ文学作品を、言わば翻訳という形で示したもの」であり、鴎外や二葉亭の翻訳を例に挙げそれを「翻訳文学」と呼ぶという。大山はゲーテやリルケを引きつつ「詩とは何か」といった問題に筆を進めるのであるが、吉川は問題を翻訳に収斂させて斯く反論する。
鴎外や二葉亭のような翻訳の存在を否定はしないが、それは文人の翻訳であって「学人の翻訳は、それとは道を異にすべきであ」ると。学人の翻訳は「二つの民族の言語という矛盾した存在の中に、統一した方向を見出そうとする努力」であって、原文より以上の「明晰度」「文学性」を注入すべきでない、と。従って「逐語訳を理想とせざるを得ない」と主張する。なぜなら文章の意味は単語によって構成されており、「原文の単語相互の間に成立する力学的な関係」を逐語訳はよりよく顕すからである、と。
それに対し大山は、学人の翻訳と文人の翻訳とを区別することに反対でないが、その二つが「一筋につながっている根本態度を尊重しなければならぬ」と唱える。高村光太郎が訳詩集『明るい時』の序に「詩の翻訳は結局一種の親切に過ぎない」と書いたように、翻訳とは「何よりも愛と親切の仕事である」と。「翻訳のことばの一つ一つが、日本語をゆたかにうつくしくするものかどうか、(中略)すぐれた翻訳家の仕事は無意識のうちにこのような面にまで親切な配慮がゆきとどいていなければなりますまい」。
吉川はあくまで自説を譲らない。殆ど激越と謂うべき反問を企てる。聊か長くなるが、そのまま引用しよう。
「あなたは(中略)詩の翻訳は何よりも「詩」でなければならず、戯曲の翻訳は何よりも「戯曲」でなければならず、小説の翻訳は何よりも「小説」でなければならぬからであるむねを、いっておられます。しかし「詩」とは何でありますか。「戯曲」とは何でありますか。「小説」とは何でありますか。「詩」「戯曲」「小説」という概念を成立させるものは一つ一つの具体的な作品であり、一つ一つの作品を成立させるものは実に一つ一つの言葉です。むろん一一の言葉の集積は統一した方向をもつ故に作品が成立するのであり、あまたの作品は、統一した方向に流れる故に、「詩」「戯曲」「小説」という概念が、凝結するのでありましょう。従ってこの統一の方向を重視して、一一の言葉は或いは犠牲に供するのも已むを得ないとする態度も、可能でありましょう。貴説はむしろそちらに傾くようであります。しかし一一の作品を度外にしては、「詩」「戯曲」「小説」というものはなく、一一の言葉がなければ、作品は存在しません。しからば、「詩」は、「戯曲」は、「小説」は、実に一一の言葉の中にあるという見方も可能であります。従って一一の言葉を丹念に追跡し、翻訳し、かくして丹念に移された一一の国語によって、再び「詩」を、「戯曲」を、「小説」を、リコンストラクトするという態度も可能でありましょう。私はこの態度を固持するものであります。」
吉川の立場は近代科学における要素還元主義にどこやら似通っている。文学研究をあくまでひとつの「科学」として定立しようとするかのようである。大山も最後の書簡で「貴説と卑見のわかれるところは結局arsとscientia のわかれるところでないか」としつつ「やはり僕には僕の棄てることの出来ぬ道があります。詩の翻訳はどこまでも「詩」でなければならぬ。これはどうあっても棄て切れぬ僕の唯一すじの道であります」と結語する。
こうして要約してしまうと異なる二つの立場の単なる擦れ違いに見えるかもしれないが、問題はどちらの立場に与するかではなく、こうした二つの立場を文学研究なり翻訳なりの現場でいかに鍛え上げてゆくかという弁証法的実践に一にかかっているというべきだろう。
3
ところで、前掲の吉川幸次郎の所論の引用文を、まさにその同一箇所を掲出して「俗に懦夫をして起たしめるというが、まさしくこの一節は当時のぼくに、そうした衝撃を与えた文章である」と篠田一士は書く。篠田は「洛中書問」の掲載された「学海」のバックナンバーを手を尽して蒐め、「論争の次第を一覧し、ぼくは、はっきり吉川説に共鳴し、加担する決意をひそかにいだいた」という。そして 「大山定一説には反対というよりは、むしろ、うとましい気持、いや、文学経験として不潔だという印象をもったと、率直に告白しておこう」とまで書く。
こう思ったのは旧制高校生の篠田である。先に見たように晩年においても篠田の原則的立場にさほどの逕庭はないかのようであるが、螢雪の功というべきか、「大山氏の後塵を拝し、同系のヨーロッパ文学の一端を多少とも読みかじってきた人間として、いまのぼくは大山説を根本においては非としながらも、その苦衷のほどは十分に理解できる」と続ける*2。
「ヨーロッパ系の文学研究家の泣きどころを、これほど見事に、ひとつの藝(傍点)に仕立て上げた大山氏に一瞬羨望をまじえた敬意を払うものである。機会あるごとに、ぼくは身近な若いヨーロッパ文学研究家に、この『書問』を読むことをすすめ、賛否を問うことにしている。大山説かならずしも利なきにしもあらず。ぼくは長大息して言う、「大山さんほどの日本語が創れるならば」と。」
篠田が世界の詩を日本語に翻訳紹介することに誰よりも力を尽してきたことは衆目の一致するところである。そして『海潮音』以降の名訳詩集に頌辞を捧げることにおいて人後に落ちないことも。呉茂一の訳詩集『花冠』を称揚したエッセイで、「『花冠』に一応の集大成をみた呉茂一のギリシア・ラテン訳詩は、『海潮音』『珊瑚集』『月下の一群』『車塵集』とともに、五大訳詩集のひとつに数えていいだろう」*3と書くように。
ことは一筋縄ではゆかないが、吉川幸次郎と大山定一との往復書簡が交わされるおよそ十年前、大山を中心とする京大独逸文学研究会を母胎に生れた文学研究誌「カスタニエン」に、ケストナーやホーフマンスタール、リンゲルナッツらの詩の優れた翻訳を発表していたドイツ文学研究者・詩人である板倉鞆音の名をここで再び想起しておくこともむだではあるまい。
- 作者: 篠田一士,池内紀
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