キルヒベルクの鐘――翻訳詩の問題(5)


   1

 高橋睦郎の『言葉の王国へ』*1は、おもに年少の頃の書物との出合いを綴った一種の自伝的読書ノートとも呼ぶべきエッセー集で、高橋睦郎の著書のなかで私のもっとも愛読する本である。リルケとの出合いを回想した件で高橋は、中学の国語教師に「上智大学富士川英郎教授についてリルケを学んだ井上忠雄氏」を紹介され、リルケの詩の読み方の手ほどきを受けたと書く。そして愛誦するリルケの「海の歌」を富士川英郎訳で引用する。ここでは第一連のみ掲げておこう*2


 大海の太古からの息吹き
 夜の海風
  お前は誰に向って吹いてくるのでもない
 このような夜ふけに目覚めている者は
 どんなにしてもお前に
 堪えていなければならないのだ


 高橋が「読まされたのは大山定一訳と高安国世訳」であったが、いまはいずれも手もとにない、と記憶をたどる。


 「私の記憶によれば、この富士川訳は大山訳に遠く、高安訳に近い。高安訳の最初の三行はたぶんこうではなかったかと思う。


  海からの太古の風
  夜の海風よ
  お前は誰のために吹くのでもない


 そして大山訳は「海原から太初の風がそうそうと吹いてくる」といったふうではなかったろうか。私は大山訳のほうがなめらかでいいと思った。しかし、井上さんはリルケの原文を朗朗と読みあげたうえで、高安訳のほうが原詩の響きをよく伝えている、と断言された。大山訳は意訳がすぎる、とも言われた。」


 高校生の高橋が大山訳に惹かれたのは頷けなくもない。そして井上氏の「断言」もおそらくその通りであろうと思われる。私の手元にも富士川訳と生野幸吉訳しかないので、高安、大山訳が高橋の記憶どおりであるかどうか俄かに確かめようがないが、「そうそうと吹いてくる」はいかにも大山の好みそうな措辞である。ちなみに生野訳では「太古ながらの海からのいぶき、/夜を吹く海の風、/お前はだれのためにくるのでもない」*3となっている。
 「大山の半ばは創作詩といってもよい、形容語の多い訳詩」(富士川英郎『黒い風琴』)が好まれるにもそれなりの理由がある。そのあたりの機微にふれて翻訳詩の問題を懇切に論じたのが川村二郎である。


   2

 川村二郎の『翻訳の日本語』*4は、岩野泡鳴の翻訳『表象派の文学運動』(大正二年)との出合いに始まり、上田敏森鴎外二葉亭四迷、とどちらかといえば詩の翻訳に傾きながら、明治・大正期の外国文学の受容を翻訳という観点から論じる。とりわけ第二章「翻訳詩の問題」、第三章「文学の翻訳は文学か」は、ここで私がとつおいつ考えてきた事柄に対して遥かに見晴らしのいい眺望を与えている。『洛中書問』の提起した問題について川村がいかに論じているかに限定して若干のトレースを試みてみたい。なお、前々回ふれた富士川の「大山の「今日の眼から見ればいささか気恥ずかしい文學青年的な熱弁」(川村二郎氏の言葉)」は、この川村論文からの引用である。


 川村は「学問研究の理想をきびしく追究する吉川の理路整然とした翻訳観と、翻訳文学なる曖昧な概念を振りかざして昂揚し慷慨する大山の心情の披瀝とでは、一見して明らかに大山の方が分が悪い」といい、大山の「なくもがなの気取り、ことさらな思い入れ、それにもとづく原文の歪曲や改変が、訳者の手前勝手な自己陶酔と見えて、興を醒ます例も少くはない。だが、取り立てて気負った様子を見せることはなしに、しかも訳者の細やかな工夫趣向が、原文に食いこみ原文とまさしく契りを結んでいると合点される場合があって、そのような時には、これこそ翻訳の勝利と膝を打ちたくなりもするのだ」として、大山の『ドイツ詩抄』よりマイエル(Conrad Ferdinand Meyer)の「鎮魂歌」(Requiem)を例示する。


  「鎮魂歌」     大山定一訳


 太陽が西の地平にしづむとき
 村の屋根からすつかり日がかげると
 たそがれが悲しい教会の鐘を打ちならし
 たがひに近所の村々は挨拶して 夕靄のなかに消えてしまふ


 あかるい丘のうへの村がひとつ
 いつまでも鐘をならさない


 やがてそれもしづかに鳴りだしたやうだ
 聞くがよい 僕のたそがれの鐘がなつてゐる


 川村はドイツ語原文を掲げたのち、逐語訳を試みる。


 夕日の移ろいにつれて/一つの村が光を失うと/村はその暗さを他の村々に/親しみをこめたひびきでもって訴える。

 まだ一つの小さな鐘が黙っていた/高みの上で、最後まで/今はその鐘も揺れはじめる/聞け、私のキルヒベルクが今鐘を鳴らしている。


 たしかに大山の訳には原詩にない言葉が少なくない。また「最後の四行目になれば、全く原文の言葉から離れてしまっているといわざるを得ない」。だが、と川村は大山の翻訳の「工夫趣向」をこまかく辿り、原作者の意図――「単なる夕暮の叙景ではなく、風景の中でのひそかな魂と魂の呼応、交感」――を「正確に把握」したからこその改変であると論ずる。川村の分析は、同じくドイツ文学を専攻し、詩の翻訳をよくする者の言だけあってそれなりの説得力があるかのようである。「大山は、詩から詩を作りだすことにたしかに成功している」と川村はいう。


 「その成功は、原文をダシにした舞文曲筆、原文をいわば発想の契機にした上での恣意的な即興演奏、といった所ではなくて、むしろ逆に、原文が何を表現しようとしているか、思いをこめて見据えた末に、相応ずる日本語の表現を自己のうちから掴みだしてきた所で叶えられているのである。」


 そして、川村は同じ詩の高安国世の訳を掲げてみせる。


 夕日が傾き
 村から日差しが消える時、
 村から村へ暗がりを訴へる
 やさしい鐘の響が伝はつてゆく。


 まだ一つ、あの丘の上の鐘だけが
 いつまでも黙つてゐる。
 だが今それは揺れ始める。
 ああ、私のキルヒベルクの鐘が鳴つてゐる。


 川村は高安訳を平明で原文に即してはいるが「原詩の輪郭をほどほどになぞった程度」であるとし、最終行の「聞け(Horch)」が「ああ」という「無意味な間投詞」になったことによって「霊のひそかに呼びかわす空間は閉ざされてしまっている」と論じる。大山訳のようにたとえ原詩を離れようと「全体として原作の心を伝えている」ならばそちらを翻訳として優位に置く、というのが川村の立場である。これはこれで一つの見識といわねばならない。
 大山が原詩の「キルヒベルク」という固有名詞を抹消したことについて、川村はこう書く。


 「この地名が消されて「僕のたそがれの鐘」となることでもって、一人称は、生活者としての個人の枠を超えて、夕日が空をめぐり次第に沈んで行く大らかな天と地のひろがりの中で、このひろがりにこもる数多の霊と呼びかわしつつ、みずからも高みの上の一つの霊と化している存在を指すかのようなひびきを帯びてくる。」


 すなわち先に述べた原作者の意図、表現の動機を「正確に把握したからこそ、あえて地名を抹殺したのだ」という。川村のいいたいことはわからなくはないが、「僕のたそがれの鐘がなつてゐる」と改変したからといって「霊のひそかに呼びかわす空間」が開けてくるというのは聊か牽強附会といわねばならない。「鎮魂歌」というタイトルに原作者が「魂と魂の呼応、交感をほのめかしたかった」のはその通りだとしても、原作者はその意図をタイトルで示すにとどめ、一篇の詩全体が暗喩となることを意図したのではなかろうか。仮にその意図を翻訳詩のなかに盛り込もうとしたならば、それこそ原作者の意図に反するのではあるまいか。
 大山訳と高安訳とを比較すると、「ああ」という詠嘆はともかくとして、「原詩の輪郭をほどほどになぞった程度」であるにしても、私は高安訳の方が翻訳詩としてまだしもと思わざるをえない。さらにいえば、川村が「これでは、翻訳文学どころか、そもそも翻訳の部類に入らない」と言いつつ訳してみせた逐語訳の方がむしろ、第一スタンザに関しては両氏の訳よりも卓れていると思う。日が翳ることを「光を失う den Strahl verlor」と直截に表現し、その暗さを「親しみをこめて響かせる Mit vertrauten Tönen vor」。そこにこの第一スタンザの要諦があり、それは「やさしい鐘の響」とも異なるものであるという気がするのである。


   3

 川村は、「吉川幸次郎の翻訳を読んで、ぼくはほとんど感興をおぼえることがない」と、吉川の「関雎」第一章(『詩経国風』)を引例して「関関雎鳩」の口語訳「かあかあと鳴くみさごの鳥」を無意味な「幼稚園児の片言めいた口語訳」と裁断し、「「童蒙」のための「方便」を心がけた研究者の翻訳は、「方便」としての用すら果さない」とあげつらう。
 同書は岩波版「中国詩人選集」の一冊であるが、同シリーズの一冊『李商隠』における吉川の愛弟子・高橋和巳の読み下し文と口語訳は、師を凌駕した見事な訳詩である。翻訳を「童蒙のための方便」と心得る吉川に「幼稚園児の片言」と批判しても詮ないといわねばならないが、吉川はこの「中国詩人選集」の読者にまさか幼稚園児を想定していたのではあるまい。ともあれ、川村が続けて、


 「吉川ほどの学識も見識もない研究者が、原文への忠実という名分を後生大事に信奉しながら、安全第一の及び腰で、無味無臭無色の訳語を一つ一つ原文に当てはめて行く退屈な光景を眺める時、なまじいな素面の状態が悪酔いよりも高級だとは、なかなかもって定めかねるのである。」


と書くとき、その安易な二分法に聊か鼻白まないわけにゆかない。先に挙げたマイエルの訳詩においても、川村は大山の訳詩を、その「形容過多」を認めつつも、高安の曲のない逐語訳の優位に置くを憚らなかった。だが問題は「あれかこれか」ではあるまい。「童蒙のための方便」の訳詩でなく、過剰に装飾の施された星菫派紛いの創作詩でなく、原詩の意図を「正確に把握」し、原詩に即きながらなおかつ日本語の詩として自立した翻訳詩は不可能なのだろうか。
 私がここで板倉鞆音の訳詩を幾度も取り上げてきたのは、板倉の訳詩がその稀有な例であると信ずるからにほかならない。原詩を知らずして斯く断言するのは不用意の謗りを免れぬかもしれない。だが、かつて引例したケストナーの「雨の十一月」(「板倉鞆音、そして山田稔」の項)の板倉訳「下駄箱にしまいわすれた/一番古い靴をおはきなさい/実際、ときどきは/雨の往来を歩くのもいいでしょう」は、「君の戸棚に忘れられている/いちばん古い靴をはくんだよ!/なぜなら君は街を歩いている間/じっさい ときどき雨に降られるかもしれないから」(小松太郎訳)や「靴箱の中に忘れたまま入っている/いちばん古い靴を穿(は)きなさい!/たとえ雨が降っていても たまには/散歩に出なければだめです」(飯吉光夫訳)よりも、日本語の詩として卓れているのみならず、原作者の意図において両氏の訳詩よりはるかに忠実であると思われる。
 「自動車にはご注意なさい/寒ければ、どうぞ、お帰りなさい/無理をすると鼻かぜをひきます/そして、帰ったらすぐに靴をおぬぎなさい」――ここに『点子ちゃんとアントン*5の作者がいる、と私にはたしかに感じられるのである。

                                     (この項了)


翻訳の日本語 (中公文庫)

翻訳の日本語 (中公文庫)

*1:高橋睦郎『言葉の王国へ』小澤書店、一九七九年

*2:高橋睦郎は最終行を「堪えなければならないのだ」としているが誤記か。ここでは新潮文庫版『リルケ詩集』より引用した。

*3:リルケ詩集』生野幸吉訳、白鳳社、一九六七年

*4:『翻訳の日本語』中央公論社、一九八一年。川村二郎「翻訳の日本語」と池内紀「翻訳と日本語」の二つの論文からなる。中央公論社の「日本語の世界」(全十六巻)の第十五巻に相当する。第十一巻の大岡信『詩の日本語』(のちに中公文庫)や、第十三巻の野口武彦『小説の日本語』、第十四巻の杉本秀太郎『散文の日本語』などはかつて繙いたことがあるが、これは今回が初読。川村のこの論文を読んでいたら、私はこの「翻訳詩の問題」について書かなかったにちがいない。仮に書いたとしても、このような書き方にはならなかったろう。私が書いたようなことはすでにこの論文に言い尽くされている。現在は中公文庫より再刊。

*5:ケストナーの『点子ちゃんとアントン』は、殆ど詩の翻訳一辺倒に思われる板倉鞆音には珍しい小説の翻訳。かぎりなく優しい語り口と生き生きとした会話がすばらしい(集英社版世界文学全集第三十七巻『現代ユーモア文学集』所収、一九六六年)。「小さなあとがき」の結びの二つのパラグラフを掲げる。「たぶんみなさんは、彼らのようになろうと決心したでしょう。たぶんみなさんは、彼らが好きになって、これらのお手本のように勤勉で、りっぱで、勇気があって、正直な子になろうとするでしょう。/それがぼくには、何よりの報酬なのです。なぜなら、エーミールやアントンや、このふたりと同じような子はみんな、のちにはいつかは、たいへんすぐれた人になるでしょう。そういう人が、ぼくたちは必要なのです。」