静かな日――中村昌義という小説家(その1)


   1

 中村昌義という小説家がいる。いや、いたと言うべきか。一九八五年一月十三日、二冊の短篇小説集と一冊のエッセイ集を遺して中村はこの世を去った。享年五十三。死因は胆嚢癌の再発だった。
 私はこの小説家とおそらく一度だけ声を交わしたことがある。


 大学を出て書評新聞の新米編集者となった私は、半年を経て文学の書評欄を担当することになったが、いわゆる文壇事情にはからきし疎かった。当時、すなわち七〇年代半ば、「文壇」の残滓らしきものが辛うじて姿をとどめ、片片たる書評紙もまた文壇ジャーナリズムの辺塞に辛うじて位置しているかのようであった。
 この頃、寿岳文章は書評誌を冀求したエッセイを雑誌「世界」に寄稿し、「私たちの目の前には、三つもの、非常によく似た週刊書評紙がある」が、いずれも自分の理想には程遠く、「もっと次元の高い、真にその名に値する週刊書評紙」がなぜできないのかと慨嘆している*1。寿岳の理想とするところは「タイムズ文藝付録」でこれは聊か望みが高すぎると言わねばならないが、寿岳の歎ずるように「現存の私たちの週刊書評紙は、あまりにもジャーナル編集の手法を採り入れすぎている」のはたしかであって、毎日発刊される夥しい新刊書の山から何を取り上げ誰に書評を依頼するかを検討するのが書評欄担当者の主務であった。毎週四、五冊の新刊を書評するということになれば、ひと月に二十人の小説家もしくは批評家に原稿を依頼することになる。同じ作家への依頼は三か月以上間をあけるとすれば、三か月で六十人の作家に執筆を依頼することになるわけである。私が、その作品を読んだことのある小説家や批評家の数はむろん片片たるもので、またたくまに「手持ち」を費消してしまうことになった。そんなときに助け舟を出してくれたのが、「林達夫」の条でもふれた、いまでは文藝評論家として知られるSという編集長であった。
 Sは、かつて文学欄を担当していたこともあってか、おそろしく文壇事情に通じていた。どういう小説家や批評家が、どういう作品をどの文藝誌に発表しているかのみならず、同人誌の世界にまでその眼光は徹しているらしく、未だ評論家としてデビューする前の加藤典洋の名を有望な書き手のひとりとして耳にしたのもSからであった。誰に原稿を頼むべきか逡巡していた私を見かねてSは中村昌義に依頼してはどうかといった。のちにわかったことだが、中村昌義は雑誌「文藝」に短篇小説を三篇発表しただけの新人作家で、三作目の「静かな日」がちょうど芥川賞の候補に挙げられたばかりの頃だった。
 思うに、私は中村昌義がどういう作家であるかも知らず一篇の作品をも読まず書評を依頼したのにちがいない。「若さは一つの困惑なのだ」は三島由紀夫の名言であるが、若さはまたその愚かさによって人を大いに困惑させもするものである。
 ともあれ、私がそのとき中村昌義と電話で何を話したかは最早記憶に残っていないけれども、書評を依頼したという事実だけは覚えていた。いや、そうではなく、ある文章をきっかけにそれは記憶の底から甦ってきたのだった。


   2

 その文章、山田稔の「別れの手続き」は、山田の作品集を何度か担当した河出書房新社の編集者Oと駅のホームで待合せをする場面から始まる。Oから中村昌義の妹が高田馬場で飲み屋を経営していると聞いたのは、たしか一九七六、七年のころ、中村が河出の「文藝」に発表した「静かな日」について感想を述べ合ったときであったかと記憶をたどる。


 「「いいね、とくにあのしの(二字傍点)という妹が」とほめると「いいでしょう」と自慢するように彼が応じたのだった。」


 彼、すなわちOと表記されているのは「別れの手続き」を収録した朝日新聞社版『特別な一日』(一九八六年)であるが、のちに再刊された平凡社ライブラリー版『特別な一日』(一九九九年)では、岡村貴千次郎と実名で書かれている。ここでは、平凡社ライブラリー版に従う。
 単行本『静かな日』*2の担当編集者であった岡村は、「でも、しの(二字傍点)があまりいいから、実物は見ない方がいいのじゃないかと思って」といい、山田も「それは私も同感だった」と述懐する。
 山田はさらに昨年(八四年)、自分のかかわる「日本小説を読む会」で中村の小説を取り上げたいと相談を受けたという話を紹介し、「私の身辺で中村昌義の名を口にしたものはいなかった」のに、思いがけず中村の愛読者に出会って「おどろき、かつ喜んだ」と附記する。そして、中村が重篤の病気で入院中だと岡村から聞いて気持が塞いだが、「私は何年ぶりかで「静かな日」を読みかえすことになったのである」と小説の梗概を紹介する。

 「別れの手続き」は何度目かの繙読にも拘らず、書き出しの二、三頁で「静かな日」とその小説をとりまく世界へとすっと引き込まれる。それはすなわち山田の散文の織りなす世界へ、ということにほかならない。
 「静かな日」は、主人公の「私」と二歳下の妹「しの」との交流を描いた短篇で、「私」は妹に「異性としての親近感」を抱いている――そう読み取れるような描写がなされている。しのと「私」が元日の公園を散歩する場面を山田は引用する。


 「ひとはけの白い雲が流れ、空は響きわたるように明るい。辛夷の花か白木蓮が咲いていて、その匂いがここに漂って来てもおかしくなかった。空気は音をよく通す乾き方で乾いていてそこにだけ冬がおだやかにあった。奇妙な音楽らしいものがときどきざわめきを断ち切って響いた。耳をすますと途端に消え、またとんでもない間をおいていきなり立ちゆらめく。やがてそれがトランペットの一吹きか二吹きだと見当がついた。音の消え方は首をしめられる家鴨だ。何処かで少年が苦闘している」


 これを読むだけでこの小説が慥かな文章力にささえられた作品であることがわかる。昨今の小説からは失われたといわないまでも、あまり見かけることのない「小説の描写」である。三十年前の当時においてさえ地味で聊か古めかしく思われ、それがために多くの読者に迎えられなかったのかもしれない。だが、川端康成を論じた篠田一士が滝井孝作の小説観として繰り返し強調する「小説は文章であり、文章は小説であるという悟達」*3に中村昌義もまた連なろうとするひとりであることは間違いない。
 山田は「しの」の描写を何ヶ所か引用する。そのうちの一つ。


 「やがてバスが停った。ぼんやり出口に立つと、先に降りかかったしのの襟足が思いがけない近さで目に入った。木洩れ日の中にしのは入ってゆく。緑に染った光りのせいか項がひどくほっそりと見えた。私はふと立ち止まってしのの後姿を見つめた。しのに重なって何かの影が動いたような気がしたからだ」


 その「影」を山田は 「それはさまざまな過去、去って行った者、死んだ者たち――戦犯として巣鴨プリズンに収容されていた父、残された子供たちを棄てて男と出奔した美しい母、死んだ妻――こういった者たちの亡霊である」と書く。そうした奥行きをカンバスの後景に置き、中年に差掛ろうとする妹「しの」――若くして離婚し、一人娘とも別居して芝居に打ち込むが、しのびよる老いに折合を附けられずに精神にすこし変調を来している――と、「しの」を見守る「私」を前景に配した結構は型通りとはいえ、「しの」を描く精彩に富む筆致によって本篇をくきやかな印象を与える佳篇としている。
 「しの」に重なる「影」を、小説の末尾近くで「私」はふたたび認める。


 「しのの後姿を眺めているうちに、胸がしめつけられるような気持が静かにやって来た。失われたものたちがいっせいに蘇って来る感覚だった。いや、ことごとくのものが彼方へ去ってしまったのを自覚してゆく時の気持だと言った方が正しかった。私も去らねばならないのだという気持が、何から去るのかわからないまま心の奥深いところからゆらめくようにこみあげて来た。」


 そして「私」は「いつまでもいっしょにいることは、もう止めにしなければ」と思う。「淋しげな影をしんと漂」わせた「しの」と別れて電車の駅へと向う「私」の姿を読者の目に焼附けて小説は終る。


   3

 山田は編集者岡村と一本の傘に身を寄せ合いながら、夕暮れの高田馬場を目的の飲み屋へ向って歩いている。フラッシュバックで場面はまた回想へと切換り、中村昌義の死を知った山田が未亡人に悔みの手紙を出すと、しばらくして中村の最後の随筆集『ぬいぐるみの鼠』が操未亡人から送られてきた、と語る。それは自らの死期を悟った中村が自身で編んだ遺稿集で、編集を手がけた岡村の配慮で送られたものであった。その後しばらくして、中村の所属した同人誌の「中村昌義追悼号」が届き、山田はその旨を岡村に伝える。


 「『碑』という雑誌の追悼号、操さんから送って来ましたよ」
 「あ、そうですか」
 「中村富士子さんの文章よかったなあ」
 「ええ」
 「あなたのことも書いてありますね」
 「ええ、そうですね」
 岡村さんは口数の少ないひとである。


 一見なんでもない描写に見えるが、これだけで岡村という編集者の人となりが鮮明に伝わってくる。山田稔のエッセイ、とりわけ人物を描いたエッセイが精彩を放つのはこうしたディテールの慥かさによってである。
 中村富士子は昌義の妹、いま二人が向いつつある飲み屋のおかみである。その中村富士子の文章に、岡村が中村昌義の病室を見舞ったときのエピソードが書かれている。
 岡村は、病院のそばを通る電車の音を聞きとめ、「ここの電車の音は優しい」という。岡村が昔住んでいた家の近くにも電車が通ってい、昼間は聞こえないが夜更けになると電車の音が聞こえたという。


 「中村昌義は目を和ませてその話を聞き、妹と二人で耳をすまして電車の音に聴き入る。それから岡村さんは、「中村さん、早く直って、また書いて下さいね」と明るく言い、中村も「ええ有難う、早くそうなりたいですね」と屈託なく応じる。
 この個所を読んで私は感動した。深夜の電車の音が好きで、その音をやさしいと思う。そのあたりに、この宇和島出身の編集者の人柄がにじみ出ているように思った。」


と山田は書く。この個所にくるといつも、平凡社ライブラリー版の解説で「変な言い方だが臨場感があるので、ぼくもそこにいたのだろうか、いや、そこにいたかったというような思いになるのである」と荒川洋治が適切に書いているように、読者である私も幻の電車の音に耳をすまして聴き入っている自分に気づくことになるのである。
 山田は岡村に葉書を書き、上京した際に(山田は京都の在である)、「高田馬場の酒場に案内してほしい」「いい文章を読ませてもらった礼をひとこと述べたい」と頼む。
 そしていま二人は小雨のなかを目的の場所に向って歩くのである。

                                     (この項つづく)

特別な一日―読書漫録 (平凡社ライブラリー)

特別な一日―読書漫録 (平凡社ライブラリー)

*1:「病める書物」、一九七五年一月「世界」掲載、寿岳文章『書物とともに』冨山房百科文庫、一九八〇年。私の勤めていた書評紙はいまはもうないが、あとの二紙、「図書新聞」と「読書人」はいまも健在である。

*2:中村昌義『静かな日』河出書房新社、一九七七年

*3:篠田一士「『雪国』の遠近」、『日本の近代小説』集英社、一九八八年