陸橋からの眺め――中村昌義という小説家(その2)


   1

(承前)

 「大通りから少し入った横丁に、雑居ビルというほどもない小さな飲み屋の集った建物があって、その一階に「おめんや」と小さな看板が出ていた。やきとりを主とする店のようだった。」(「別れの手続き」)


 そこが目的の店である。中に入ると、十人も坐れば満員になるカウンターと小さな座敷がある。客はひとりしかいない。岡村は山田に中村富士子を紹介した。


 「白っぽい地に黒い模様の入った着物を着、紫のたすきに紺がすりのような前掛けをしていた。それは「静かな日」の和服姿のしの(二字傍点)のイメージと自然に重なった。髪はまんなかで分けてうしろで束ねていた。広い額、ひきしまった口許、鼻筋の通った色白の面長な顔――「静かな日」のしの(二字傍点)そっくりだと思った。」


 山田と岡村は奥の座敷に上がり、焼酎を酌み交わした。やがて客がふえて店は活気づき、富士子は客の応接に暇がない。ふたりは自然と中村昌義の思い出を語り合うことになった。
 同人誌「碑」の「中村昌義追悼号」に、「文藝」の編集者・金田太郎がこういうエピソードを寄稿していて、と山田は語る。金田が中村をともなって新宿の文壇バーへ行ったときのこと、他社のベテラン編集者が中村の作品について「意地の悪いこと」を言った。中村は言葉少なに応じていたが、やがて突然立ち上がり何かを叫ぶとグラスをカウンターに叩きつけた。「手から血がながれていた」。
 中村はそれほど気性の激しい人だったのかと問う山田に、実は自分もその場に一緒にいたのだが、と岡村は応じる。


 「金田さんの文章では、中村さんはそのベテラン編集者に対して怒ったように書かれていますが、ちょっと違うんです。むしろかばうべき立場の金田さんが、一緒になってからかうようなことを言った。それに怒ったんですよ。金田さんにはわかっていないんだなあ」


 山田は岡村の説明に、「それで私も少しは納得がいくように思った」と記す。「会ったことはないが、骨太の大きな体躯の中村昌義には、外見に似ず激しい憤りのかたまりを繊細な神経でつつんでいるようなところがあったのではないか」。山田の推測は肯綮に中っているように思われる。中村の小説――いずれも「私」を語り手とする私小説、自伝的な小説である――を読めば、彼の繊細さは紛れもない。中村は第一作品集『静かな日』のあとがきに金田への感謝をこう記している。


 「これらの作品は『文藝』に発表したものだが、編集の金田太郎さんからどれだけ熱心な助言を得たかわからない。他の作家がこれだけのものを受けることができるとは想像しにくいほどのものだった。作品の誕生には運命とでもいった力を抜きにして考えられないのだと、つくづく感じたのもそんな時だった。」


 『静かな日』には三作が収められている。いずれも「文藝」に掲載された小説である。

  「静かな日」   一九七六年(昭和五十一)八月号
  「うずくまる闇」 一九六八年(昭和四十三)十月号
  「走る日」     一九七五年(昭和五十)四月号

これ以前の、単行本未収録の「風車は嘲る」(一九六七年十月号)、第二作品集『陸橋からの眺め』収録の三作品、いずれもが「文藝」に掲載された作品である。そして商業誌に発表された小説はそれですべてである。これらを読めば中村の小説世界がさほど広くないこと、量産に向かないこと、そして時流に乗るものでないことは審らかである。思うに、そうした中村の小説の在りようを「ベテラン編集者」は意地悪く衝いたにちがいない。むろん自身が承知のことであるがゆえに、中村は不快に堪えていたのだろう。そして自分の小説を誰よりも支持してくれていると信じる金田に裏切られたと思ったとき、中村は血が逆流するような思いに捕われたにちがいない。「金田さんにはわかっていないんだなあ」――山田と同じく小説でしか中村を知らない私もそう思わざるをえない。
 中村操夫人は追悼号で夫のことを「どこか戦国武士のような悲愴感」を漂わせつつ同時にひどく涙もろい人であった、と評しているという。


   2

 「「静かな日」のしの(二字傍点)はあなたがモデルなんでしょう。恋人みたいに書かれてますね」


 山田は焼酎の酔いにまかせて富士子にそう問いかける。「みなさん、よくそうおっしゃりますが」とさらりと躱して、「兄の知っていた何人かの女性の特徴が寄せ集めになって」いるようだ、と富士子は応える。


 「しかし私には「好奇心の強い大きな目」という点をのぞいて、「静かな日」に描かれたしの(二字傍点)の姿は、ほぼそのまま現実の妹のそれであるように思えた。」


と山田は書く。山田の紹介する、富士子が追悼号に書いた「彼の岸に――別れの手続き」は、死の床につく兄・昌義との交流を描いて出色の文章である。昌義の死後、二ヵ月あまりのうちに執筆されたそれは「しめっぽさ」がなく「ところどころユーモラスでさえある」。それは「一年半にわたる覚悟の時間があったからであろう」と山田はいう。


 「おい、俺は恰好よく死にたいと思っていたんだが、どうも恰好よく死ねそうもないぞ。だけど俺の生き方そのものが、恰好よくなかったんだから、仕方がないな、高望みというもんだ」「戦争で死ぬんじゃあるまいし、病気は仕方がないよ」――こんな会話が兄妹の間でできるほどの心のゆとりが出来ていたからであろう。「別れの手続き」とは、そもそもこのようにむしろ淡々として、ときに笑いさえともなうものなのかもしれない。」


 山田は帰り際に、「お兄さんはいい妹さんを持ててしあわせでした」と富士子に告げる。「いや、ただ胸のうちでそうつぶやいただけだったかもしれない」。
 私は山田稔のこの「別れの手続き」を読んで中村昌義にかつて原稿を依頼したことを思い出し、中村の小説を読みたい、読まねばならぬ、と思ったのだった。


   3

 「うずくまる闇」は、十七歳年上の妻「ふみ」との結婚生活と死別を「ふみ」の愛した猫たちを絡めて描き、哀切な印象を残す佳篇。「走る日」は、再婚した妻との生活と、少年時代を過した父の勤務地・樺太の回想。「静かな日」が第七十六回芥川賞候補になったのを機に、第一作品集『静かな日』が一九七七年(昭和五十二)一月、河出書房新社から刊行される。中村昌義四十六歳の遅いデビューであった。
 同七七年七月号「出立の冬」、七八年七月号「淵の声」、七九年三月号「陸橋からの眺め」と年に一作の寡作ながら、「出立の冬」が第七十八回芥川賞、「淵の声」が第八十回芥川賞の候補に挙げられ、その三作を収録した第二作品集『陸橋からの眺め』(河出書房新社、一九七九年七月)で昭和五十四年度(第三十回)藝術選奨文部大臣新人賞を受賞する。
 ちなみに翌る一九八〇年、「文藝」が募集する新人賞を受賞し、翌年の芥川賞候補にもなり百万部を超える大ベストセラーとなったのが、一橋大学生・田中康夫のデビュー作『なんとなく、クリスタル』である。中村の小説の舞台である「文藝」での、この二回りも若い学生作家の華々しいデビューを、中村はどのように見ていたのだろう。遅い出立とはいえ、三度の芥川賞候補に藝術選奨文部大臣新人賞受賞の経歴は、新人作家として誇るにたるものである。だが先述したように、七九年の「陸橋からの眺め」を最後に、中村が小説を発表することはなかった。「文藝」を初めとする文藝誌が中村に作品をまったく需めなかったとは考えにくい。おそらく中村のほうに書き泥む何らかの原因があったのだろう。

 『陸橋からの眺め』の三作は、中村の青年期の精神の彷徨とでもいったものを描いた連作である。「出立の冬」は福岡県太宰府を舞台に弟妹たちとの生活、刑務所にいる父、水俣に離れて暮す母、就中、飲食店で働く女・滋子との恋愛を描いて精彩を放つ。「淵の声」で大学へ入学して上京した「私」と、喫茶店でアルバイトをする女子大生・暢子との恋愛と訣れを描き、「陸橋からの眺め」では、巣鴨プリズンを出所した父との生活を中心に描く。単行本の帯に引用された秋山駿の「陸橋からの眺め」評を引いておこう。


 「地味で、くすんでいるが、しっかりした手触りを持った、戦後生活の光景が広がる。哀れな父親、分裂の家庭、新宿の特飲街、そこの娼婦などが、確かな存在感をもってそこにある。ことに娼婦のヨシコという女がいい。」


 ヨシコと同衾した「私」が疲れて寝入ってしまい、ふと目覚めると、何処かで「しあわせの歌」をうたう声が聞こえる。「それが終ると、悲壮感をおびた国際学連の歌に変った。今日、デモでもあったのかも知れない。うたっているのは私よりずっと若い学生のような気がした」。
 「国際学生連盟の歌」――「学生の歌声に 若き友よ手をのべよ 輝く太陽 青空を 再び戦火で乱すな」といった学生たちのパセティックな歌声が街衢に響いていた五〇年代半ば、中村は早稲田大学第二政経学部へ通う傍ら、国会図書館に勤務する勤労学生だった。川崎彰彦が『ぼくの早稲田時代』*1で活写した青春群像の、中村もそのひとりであった。「私」は学生の歌声を聞きながら、「上京してこの三年の間に私のやったことといえば、なにもかも中途半端で、その自分がなんとも頼りない限りだった」と思う。「私はいったい何をしているのだろう」という悔恨の思いに「私」は胸を締めつけられる。「あやふやな自分の存在を嫌悪しながら、たまらなく誰かに会いたがっていた」。しかし「この町で会いたいとおもう相手は、ヨシコしかいなかった。だが、いま考えてみると、それは肉体を持った現実のヨシコではなく、空想のなかに棲む名前すら持たない女の姿だった」。
 「私」の追い求めているのは「自身の背」であった、と苦い思いで「私」は確認する。齟齬、孤独、充たされぬ思い。青年の精神の彷徨とはそういうものだと悟り澄ますことも可能だろう。だがそれを「しっかりした手触り」と「確かな存在感」で描き出すことは容易ではない。中村は「芸術選奨を受賞して」という文章でこう記す*2


 「『陸橋からの眺め』は、私の少年期から青年期を主な素材としているが、この齢にならなければ書き得なかった、すくなくとも、もっと若い頃に手をつけていれば、恐らく箸にも棒にもかからぬ濡れ雑巾みたいなものができあがっていただろうとおもっている。ようやく私が探りあてたものは、自らの内側にあるものを描かねばならないと気づき始めたことであった。たとえば、肉親や女性たち、街や風景にしろ自分の中にそれを見ようとはしても、自分の外側に存在するそれらを直截に描こうとは思わなくなっているということである。(略)
 あと数ヵ月で、私は五十歳になろうとしている。その歳月のなかで夥しいものを失い、あるいは棄てて来た。物を書くということに、どこか酷たらしさがつきまとっているように感じられるのは、そのためなのだろう。そしてどんなときも、一寸先すらわからない無明の道筋をさぐり這う心地だった。
 改めて一里塚の道標をわきに見ながら、書くなかで棄てざるを得なかったものへの鎮魂の思いは、いませつなるものがある。」


 ものを書くという行為には酷たらしさがつきまとう。こう書くことのできる人の文章は信じていい。
 私は、古書店を探し回って二冊の小説集を手に入れ、読むことができて本当によかったと思った。そして中村が死の床で編んだ最初で最後の随筆集『ぬいぐるみの鼠』を読みたいと思った。インターネットで検索しても、二冊の小説集は出ているけれども、この本だけは見つけられないまま数年が経った。
 先月、それはふいに到来した。徳島の古書店の倉庫に眠っていたものだった。中村がゲラ刷りに目を通し、その十時間後、本の姿を目にすることなく永眠した、それは遺著であった。死を覚悟した中村が遺書のように認めたあとがきの文章が心に沁みた。
 巻末に操夫人の手になる「中村昌義著作年譜」と「中村重敬(昌義)年譜」が附されている。著作年譜によれば、私が中村昌義に依頼した原稿は、昭和五十一年(一九七六)、高井有一著『夢の碑』の書評であった。
 第一作品集『静かな日』刊行の前年のことである。
                                         (この項了)

*1:川崎彰彦『ぼくの早稲田時代』右文書院、二〇〇五年

*2:中村昌義『ぬいぐるみの鼠』河出書房新社、一九八五年