雨降りしきる――中村昌義ふたたび


 上坂高生の小説集『雨降りしきる』を読んだ。
 上坂高生は私には懐かしい名前である。学生の頃、五木寛之のなにかのエッセイで上坂高生の『冬型気圧配置』という題名の小説集を知り、妙に心惹かれて手にしたことがある。いまはもう手もとにないけれども、小さな出版社から出た、真っ黒なカバーに表題が白抜き文字で書かれた素っ気ないつくりの本だったような記憶がある。小説のなかみはすっかり忘れてしまったが、本の佇まいだけはいまも記憶に残っている。
 書店の棚に上坂高生の名を見つけ、思いがけず旧知に出会ったような思いで私はその『雨降りしきる』を抜き取った。カバーの隅がすこし日に焼けて色褪せていた。奥付には一九九四年、武蔵野書房とある。東京広しといえども十年以上前の地味な作家の小説集を何食わぬ顔で棚に並べている新刊書店はここ、書肆アクセスぐらいだろう。手にとって目次を見て驚いた。三篇の小説のうちの一篇のタイトルにこうあった。「凍る夜深く――無念の中村昌義」。
 二ヶ月ほど前、私は、編集者になりたての頃わずかに係わりのあった中村昌義という小説家について、二度にわたってこのブログで書いた。その導きかもしれないという思いが一瞬脳裡をよぎった。


 「凍る夜深く」は、中村昌義の死の前後を綴った私小説である。私はもっぱら中村昌義への私的な関心に添って興味深く読んだが、そうでない読者がこの小説に興味を覚えるかどうかはよくわからない。上坂高生は中村昌義が所属する「碑」という同人誌のメンバーで、それだけに一読者の知らない中村の人となりもこの小説から窺うことができる。
 中村昌義は「文藝」に発表した小説で三たび芥川賞の候補になっている。最初が「静かな日」で、第七十六回候補。このときは受賞作なしだったが、前回が村上龍、次回が三田誠広池田満寿夫の同時受賞で、彼に時の利あらずの感が深い。次が「出立の冬」で第七八回。宮本輝と高城修三の同時受賞。最後が「淵の声」で八十回。このときも受賞作なしで、前後が高橋三千綱、重兼芳子と青野總。結局、中村は受賞に至らなかったが、作品集『陸橋からの眺め』で藝術選奨文部大臣新人賞を受賞する。上坂高生は「彼としては芥川賞のほうが欲しかったのは当然だが、常連のように芥川賞候補になる人は、受賞は無理な風潮になっていた。今となっては芸術選奨が何よりのものであったといわねばならない」と書いている。
 藝術選奨新人賞を受賞した後、中村は小説を発表していない。「「文藝」を初めとする文藝誌が中村に作品をまったく需めなかったとは考えにくい。おそらく中村のほうに書き泥む何らかの原因があったのだろう」と私は書いたが、上坂も同じ思いであったろう。上坂は中村を問い詰める。


 「――雑文なんか書いていないで、本物を書かないと、駄目じゃないか。
中村さんに面と向かってそういったのは、彼が倒れる前の年の暮だった。「東武よみうり」とか聞いたこともない地方新聞に月一回ていど、四百字くらいの随筆を書き、それを複写して、得とくとしてみんなに配っているのが、私には我慢ならなかった。」


 中村はむっとして「あなたは、いま、何を書いている」と上坂に問い返す。教師の自殺をテーマにした小説を書くために資料を集めている、と答える上坂に、中村は「先ほどの怒った顔、大きな目が、にわかに柔和なものに」なって「それはいい、早く完成させなさいよ」といい、大手の編集者に紹介すると「自信に満ちた言い方」で答えた。上坂はのちに、中村の妹、そして中村自身も自殺を図ったことがあると知って驚く。
 中村は「今年は書きますよ」と書いた年賀状を上坂へ寄こし、河出の編集者にも次作の構想を語っていたという。中村はそれを完成させずに他界するのだが、上坂のこの小説の副題「無念の中村昌義」はそのあたりを指してのものだろう。中村が構想していた次作が何であったかは知る由もないが、同人誌「碑」で中村の追悼号を出すにあたって届けられた中村の遺稿を読み、上坂は「やはりこれを書きたかったのだ」と思う。
 題は「鳥ぞ汝が友」。十七歳年上の前妻と「知りはじめてから、いろいろな障害をのり越えて、いっしょになるまでが、五十数枚きっちり書かれていた」。その後、高校生の末妹の自殺未遂の経緯が描かれているのだが、原稿用紙に清書されているのはそこまでで、あとは構想や、新婚気分で弟妹をおろそかにしていたという反省などが「流し書き」で書かれているにすぎない。上坂は「結婚して幸わせな気分になって二人で町を歩いた、というところで切って」まとめたが、雑誌が出来上がって「失敗した」と思う。「末妹の自殺未遂まで続け、「未完」とすべきだった。あと何がまだ起こるのか判らないようにしておくべきだった」と思う。「おそらく中村さんは妻の死までを書くつもりだったにちがいない。しかし構想のようなものを見れば、あちらを書き、こちらを書き、手こずったことがみてとれる。それを何とかしてまとめあげたかったことが、痛いほどわかるものだった」。
 小説「凍る夜深く」は、中村が死の前夜大声を挙げたという、葬儀の席での操未亡人の言葉を書きとめて終る。


 「「病院中にひびきわたる声でした。主人のこんな声は、今まで聞いたことはありません。それは、長いあいだ続いて……」
 激痛による断末魔の呻き咆哮であったか。しかし、ただそれだけではなかった気がしてならない。私は、長机にのせた自分の左手の甲の、うきあがった血管を見つめる。」


 追悼号に掲載された中村の遺稿「鳥ぞ汝が友」を読んでみたいと思った。上坂の『雨降りしきる』に出合ったように、いずれこの小説とも出合うことになるだろう。名篇「別れの手続き」で中村昌義の肖像を描いた山田稔が「詩人の贈物」で書いている。

――人は思い出されているかぎり、死なないのだ。
  思い出すとは、呼びもどすこと。


 私のなかの中村昌義は、まだ死んでいない。