『細雪』を読む天皇


 私がここに書くものはきわめて私的な回想と読書感想文のたぐいが殆どで、思い出話はともかく、感想文については記憶の中の本や偶々手元にある本から気儘に抜書きをして他愛ない感想を附しただけで、剰え格別珍しい本などそこに含まれてはいない。したがって誰もが知っている著名な本の周知の挿話を引き、事改めて感心しているに過ぎない。この児戯に類する漫文に目を留めてくださる少数の方々に予め御海容をお願いするしだいである。以下に記すのも、その類いであるかと思う。


   1

 尾崎一雄に『単線の駅』*1という随筆集がある。なかの「日本の言葉・文章」と題した文で、尾崎は谷崎潤一郎全集第二十五巻の月報に掲載された入江相政の文を引用する。谷崎が『細雪』を書き上げ、文化勲章を受章(昭和二十四年/一九四九)した折りのこと。陪食のあとのお茶の席で、総理の吉田茂が「陛下に内奏する時こまるから、今度から細雪みたいなむずかしい題はやめてほしい」と谷崎に頼んだ。すると同席していた志賀直哉が「細雪をサザメユキなどと発音してはいけない」と吉田茂を窘め、「陛下も是非これをお読みになるように」と申し上げたという。しばらくして中央公論社から宮中へ『細雪』が届けられ、「お机の上に置かれた細雪の頁が、毎日少しずつ進んでいくのを、みんなよろこび合ったものだった」と入江は記す。
 尾崎は、吉田茂の「傍若無人振り」を批判し、「やつぱり志賀さんだな」と志賀直哉に感心したのち、久保田万太郎に「さゞめ雪」という作品があって、と注する。


 「ササメ又はササメキは、私語とかささやきであつて、言葉のひそやかなかたちを表はすのに用ひる。したがつて、ササメユキと言へば、細かに降る雪又はまばらに降る雪をさす。
 一方サザメ、又はサザメキは逆に騒がしくにぎやかな意を表はすのだから、サザメ雪などといふ使ひ方はナンセンスである。時雨にしたつて「サンサシグレ」であつて、「サンザシグレ」ではあるまい。「さんさ時雨」だからこそ「音もせで来て濡れかかる」のである。俳句では玄人の久保田万太郎が、どうして「さゞめ雪」などといふ題を使つたのか、ちよつと了解に苦しむのである。」


 「さんさ時雨」は「さんさ時雨か萱野の雨か、音もせで来て濡れかかる」に、ショウガイナと合いの手が入る仙台に伝わる民謡である。「さゞめ雪」といえば、薄田泣菫の『白羊宮』に「さざめ雪」という詩がある。


     「さざめ雪」

 夕凍(ゆふじみ)の/小野や、――伏目に/さしぐみし/日はみまかりぬ。
 左視右顧(とみかうみ)、/あな細雪(さざめゆき)、/常楽の/宮とめあぐみ、/ものうげの/旅や、はつはつ。

 ここ、かしこ、/榛実(はしばみ)の殻、/また乾反る/伏葉のみだれ/小木の枝に、
 鵐(しとど)竦(すく)りて、――/あな、ここは/悲びの邦、/鈍色(にぶいろ)の/住家ならまし。

 ささやきつ、/また吐息しつ、/雪片(ゆきひら)の/嘆きよ、――落ちて、/葉に、石に
 凭(いこ)ひぬ、倦みぬ、/またたきて、/つとこそ消ぬれ、/いささめの/生命か、――湿(うる)ひ。


   2

 この「ささめ雪」と「さざめ雪」との来歴をめぐって考察したのが碩学久保忠夫である。『三十五のことばに関する七つの章』*2において、久保は「細雪」についてこう記す。


 「この語は谷崎潤一郎の小説『細雪』によって、今日誰知らぬ者もない程知れわたっているが、明治以前にその用例をもとめれば、この辞書が挙げ、他の辞書も挙げるつぎの一例のみであろう。

  古今打聞-上「ささめ雪ふりしく宿の庭の面に見るに心もあへずざりけり。ささめ雪ふりしくとは広くふる雪也。又こまかにふるをも云る儀もあり」

 『古今打聞』とは凡河内躬恒の編纂したものと伝えられ、『秘蔵抄』ともよばれる歌学書である。これにのっている一例だけである。」


 久保が「この辞書が挙げ」という辞書とは『日本国語大辞典』。凡河内躬恒三十六歌仙の一人として知られる平安朝の歌人であるから、明治以前といっても千年も時代が離れているわけである。
 久保によれば、明治以降「ささめゆき」の語を収めた辞書は、山田美妙『日本大辞書』(明治二十五年七月)の「ささめ・ゆき(第三上)名{細雪} コマカニ降ル雪。」、ついで吉川半七『日本大辞林』(明治二十七年六月)で、『日本大辞林』は「ささめゆき 細雪。ちひさきゆき」として『秘蔵抄』の上掲の歌を用例に挙げる。
 一方、「「細雪(さざめゆき)」と、にごって用いた最初の人は薄田泣菫であると思う」として(泣菫の「さざめ雪」の初出は、明治三十九年一月の「中学世界」である)、「泣菫を源とする、「さざめゆき」と濁って用いる一つの系譜」をたどってみせる。
 曰く、河井酔茗『新体詩作法』(明治四十一年六月)における「細雪(さゞめゆき) 細かなる雪」、岩野泡鳴『新体詩の作法』(明治四十二年三月)における「さゞめゆき(細片の雪を云ふ)」、現代詩講座第十巻『詩語辞典』(昭和五年九月)における「さゞめゆき〔細雪〕細かな雪」等々。
 泣菫についで「さざめゆき」とにごって用いたのは、竹友藻風大正元年九月の「昴(スバル)」に発表した短篇小説「さざめゆき」である。


 「あけがたになつて少しは小止みになつたが、それでも雪もよひの空は深く空を蔽うて、下は一面に雪にうづもれ、銀砂子のやうなさざめゆきが降るともなしに降つてゐた。」


 藻風に刺戟されてか、同年十二月の「朱欒」に北原白秋は、


  真夏より冬に飛び越えさざめ雪きたるけはひかひとに憎まる


という短歌を発表し、『雀の卵』(大正十年八月)にも、


  さざめ雪窓にながめて母父(おもちち)と浮世がたりをするが寂しき


を収録している。また白秋門下の木俣修の『呼べば谺』(昭和三十九年十月)に、


  仙台の夜のさざめ雪そのかみの教へ子たちに従きて街ゆく


の歌があると久保は附記する。谷崎が「「細雪」瑣談」(全集二十三巻)で、


 「ちよつと一言しておきたいのは、この読み方についてゞ、「さざめゆき」と濁つて読む人もあるが、「さざめゆき」でなく「ささめゆき」と濁らずに読んでいただきたいと思ふ。」


と注意を促したのは、こうした「さざめゆき」と濁って用いる系譜を知ってのことだろう、と久保はいう。
 久保は挙げていないが、万太郎の「さゞめ雪」(大正五年)も泣菫や藻風、白秋に倣ってのものであるのかも知れない。谷崎がこうした近年の用例でなく、(一例に過ぎないが)王朝に範を採ったのも満更肯けなくはない。「ささめゆき」に「細雪」の漢字を当てたのは、「「ささなみ 細波」、「ささやかに 細小」などと同じ語根とみとめてのことであったろう」と久保は推測しているが、尾崎一雄がいうように「さざめ雪」の「さざめ」が「サザメク」に由来するかどうかは不明である。


   3

 尾崎一雄は当の随筆の後半、一転して志賀直哉の「城の崎にて」をとりあげ、桑の葉が風もないのにヒラヒラ動いていたが、風が吹くとその葉は動かなくなった、という名高い一節を引き、中学や高校の先生があまりにその意味を問い合わせてくるので、志賀は「いちいち書くのは面倒だから、返事用にガリ版でもつくつて置かうかと思つたこともある」と言った、と書く。
 そして、あるとき、サイデンステッカーの訪問を受け、この桑の葉の話が出た、と続ける。
 「誰に訊いても判らない、ある評論家は、誤植だらうと言つた」というサ氏に、尾崎は「風の力が強くなれば、葉は一方に押しつけられて動けなくなるのだ」と答え、「誤植だと言つたのは誰か」と訊ねた。


 「氏はちよつと躊躇したのち、「それは吉田健一氏である」と言つた。茂氏といひ、健一氏といひ、もう少し日本語を丁寧に扱つて貰へぬものか、と私は思ふのである。」


 こうして四百字四〜五枚の随筆の首尾がみごとに結構する。聊か憮然とした面持ちの尾崎一雄を思い浮べ、そして吉田健一の「けけけけ」という伝説的な笑い声を想像して、私はすこぶる愉快な気分になった。
 ところで、昭和天皇が『細雪』に読みふける図はなんとなく思い浮べることができるが、今上天皇が――さて何にしようか――たとえば『ねじまき鳥クロニクル』を繙かれる光景は、私にはとうてい想像しがたいのである。



三十五のことばに関する七つの章

三十五のことばに関する七つの章

*1:尾崎一雄『単線の駅』講談社、一九七六年

*2:久保忠夫『三十五のことばに関する七つの章』大修館書店、一九九二年。第一部「三十五のことばに関する七つの章」の第四章、および第二部「九つのことばについて」の<「ささめゆき」と「さざめゆき」>。