文体について(その3)――丸谷才一「批評家としての谷崎松子」



 前々回、「文体について(その1)」と題した文章を掲載するまでに、ひと月あまり間があいた。更新が滞ったのは、その間、ちょっと気の張る原稿を書いていたためだった。気の張るというのは、柄にもなく日本の古典文学をテーマにした原稿だったことにくわえ、同じテーマの執筆予定に丸谷才一の名前が挙げられていたからだ。丸谷さんと同じ誌面に原稿を書くとなると、そりゃあ緊張しますよねえ。もしかすると丸谷さんの目にふれるかもしれない、そう思うとペンを持つ手もふるえる。いや、ペンは持ちませんが、まあちょっと居住まいをただす、という感じはある。ほかにも、北村薫さんとか中沢けいさんとか、錚々たる方々が寄稿されるとのことなので、わたしなど山を賑わす枯木の役割にすぎないとはいえ、いつものように気楽に書きとばすというわけにはゆかない。ようやっと書き上げて送稿し、しばらく気が抜けた状態だった。
 気を取り直しブログの更新に取りかかろうと思ったときにふと思いついたのが丸谷才一の「批評家としての谷崎松子」というエッセイだった。このすこぶるおもしろいエッセイをさかなに文体について考えてみよう、そう思い立ったときにちょうど刊行されたばかりの片岡義男の『日本語と英語』を読み、これを枕に書き始めたら思いがけなく枕が長くなってしまった。
 「批評家としての谷崎松子」は「中央公論」の1993年2月号に掲載されたものだが、わたしは昨年刊行された『樹液そして果実』*1に収録されたのをはじめて読んだ(ちなみに、先に書いた古典文学に関する原稿に、この本から「王朝和歌とモダニズム」のなかの一節を引用しもしたのだった)。
 丸谷才一が潤一郎夫人谷崎松子の文章に注目したのは半世紀近く前、1966年のことだという。松子夫人が夫潤一郎の回想を雑誌に発表し、それは翌年『倚松庵の夢』という本に纏まるのだけれども、雑誌「中央公論」の文章を読んだ丸谷は次のような読後感をもった。


 《松子さんの文体が谷崎さんの文体に似てゐるといふ考へはむしろ逆で、きつと谷崎さんが松子さんの恋文を読んで影響を受けたのであらう。松子さんの現在の文体を見てもそのへんの事情が察しられる》


 この感想を人づてに聞いた松子夫人は丸谷のことを「本当に恐しい方ですね」と洩らしたという。谷崎が松子夫人の恋文に影響を受けたというくだりについて、丸谷はこう書いている。


 《谷崎さんは長いあひだ欧文脈の文章を書かうと努め、それがうまくゆかなくて困つてゐるとき松子さんに出会つて、これはどちらがさきか明らかでないけれど、松子さんのたよりが模糊たる趣の文章で書かれてゐることに衝撃を受けたり、あるいは松子さんから文体を批判されたりしたのだつた》


 谷崎が松子夫人から文体を批判されたというのは、松子宛の谷崎の手紙の次のようなくだりに窺うことができる。


 《文章読本を書きながら気がつきましたことハ、この読本の趣意ハ、日頃御寮人様より、お前ハ言葉に丸みがなく、含蓄がないと、いつもいつも御叱りを蒙りますので、文章に文字の多すぎること、表現のハツキリし過ぎることを戒めたものでございます、されバこれも皆御寮人様の御趣意をそのまま書きましたやうなものにて、何事も御教訓の賜といよいよ有難く存て居ります》


 この手紙は丸谷が松子夫人から貰い受けたもので、谷崎の全集には収録されていない。女人に御叱りを受けたいという谷崎の願望を差し引いたとしても、松子夫人の批評・批判が谷崎に文体を意識させたことはたしかだろう。谷崎に衝撃を与えたと丸谷のいう松子夫人の「模糊たる趣の」手紙をわたしたちは見ることができない。そのかわりにと、丸谷は『倚松庵の夢』より「桜」の一節を引用する。


 《京都の花便りは何と云っても最も気にかかるので、毎年四月の七、八日になると電話で聞き糺すのであった。平安神宮のお花見のことは「細雪」で余りにも知られ近年は雑踏のために花見らしい情趣も酌めなくなってしまったが、「細雪」を執筆しはじめたころは、内苑の池の汀に床几をもうけ緋毛氈を敷いて、蒔絵のお重に塗盃でお酒を酌み交し、微醺を帯びて枝垂を見上げ、そよともふく風のないのに梢の末(うれ)が幽かにゆらぐのが此の世のものとも覚えぬ風情で、私たちは花の精が集うていると云い合った。全く花に酔い痴れて花の下で何を語り何を考えたかそれも思い出せない。
 夫と世を隔てて翌年の春、平安神宮の桜を思い起こさないではなかったが、あの花を独りで見る悲しさに堪えきれるものではなく、花に誘われて遠い遠い雲の彼方へ魂は連れ去られ、此の身だけが嫋々としだれる花にそと触れられながら横たわっている。そんな空想をしながら家に籠っていた》


 丸谷はこの一節を引いたあと、次のような感想を書きつける。


 《こんなふうに欧文脈をしりぞけた文章があって(おそらく半世紀前の手紙は主語と目的語がもつと省かれてゐて、もつと時制が朦朧としてゐたらう)、それが恋ごころを見事に伝へてゐるのを目のあたりにしたとき、谷崎さんは自分のあやまちを悔む思ひだつたらうし、さらに、さういふ文体の持主からの批評はずいぶんこたへたに相違ない。文章についての主張が一変したのは当然のことだつた》


 松子夫人のみごとな文章はただ味わえばよくてよけいな注釈など不要であるけれども、文体についてすこしだけ書いておこう。最初のセンテンスは主語(私)を省略。第二文目の息の長い長文、「細雪」を執筆しはじめたころは、といったふうに省略される主語は通常は一人称なのだが、ここでは「谷崎が」とわざわざ書くまでもない自明のことなので、また流れもよどむので、略されている。それにつづく、緋毛氈を敷いて、酒を酌み交し、枝垂を見上げるのは、最後に出てくる「私たち」なのだが、読点で区切られた一つひとつの動作の時間の推移を追うかのごとくあたかも絵巻のように記述されているのがみごとだ。あくがれいづる魂を叙して嫋々たる余韻をのこす名文。一人称の私はすべて略されている。
 欧文脈の文章は近代とともに始まった。それ以降、小説の隆盛に欧文脈の文章はおおいに貢献する。「(欧文脈の)文体は人間関係のもつれ具合を鮮明に写すためにも、物事を明確に提出するためにも、時間の構造を納得させるためにも、最適のものだった」からである。やがて和文脈、漢文脈の文章はすたれ、多くの日本人はいまではそれらを注釈なしに読むことができなくなった。わたしたちは近代化によってなにを失ってきたのだろう。
 谷崎の欧文脈の文章が松子夫人の示唆によって「洗練され、格段に上つた」と『蓼喰ふ蟲』の一節を丸谷は引用する(ここでは省略)。そして谷崎の「中期以後の文体を成立させた批評家は佐藤春夫でも正宗白鳥でもなく、この女人だつた」ことに着目する。


 《この問題提起が、上方から、女人である読者から、すなはちまさしく文壇以外からなされたことは、近代日本文学と文体との関係をまことに象徴的に示してゐるやうだ。この文学風土においては、文章が重んじられたとしても、主として個性のおのづからなる発現としてであつて、共同体のなかにあつて伝統を継承する者の表現の具といふ性格はほとんど無視されて来た。谷崎さんが学んだのはそのことで、さういふ事情を啓示するためには職業的でない批評家が必要だつたのであらう》


 谷崎の文体を「典雅で充実した新文体」へと一新させた松子夫人の恋文は、いずれ日の目を見ることもあるかもしれない。丸谷との対談で「私の手紙はあるかもしれませんですよ。確かにひと鞄にございましたから」*2と松子夫人が語っているのだから。丸谷はこのエッセイの最後にこう記している。それはいかにも丸谷らしい評言といえよう。「松子さんの批評は、われわれの散文の歴史における最も花やかな貢献であつた」。
 さて、丸谷才一は一週間前の十月十三日の朝、思いがけず長逝してしまった。わたしの書いた後鳥羽院についての漫文はついに丸谷さんの目に触れる機会を永遠に失った。お読みくださいというほどの代物ではないので、それを残念に思いはしない。悔いが残るとすれば、亡くなる寸前まで丸谷さんがあたためていたと伝えられる小説や評論をもう読めないことだ。ひと足先に退場した安東次男、石川淳らと冥界で歌仙を巻く丸谷さんの姿を想像して追悼することにしよう。
 

樹液そして果実

樹液そして果実

*1:集英社、2011年。古くは1968年の「北野供養」から新しくは2009年のジョイス丸谷才一訳『若い藝術家の肖像』の解説まで、充実した文藝論集。

*2:丸谷才一対談集『文学ときどき酒』中公文庫、2011