カフカ翻訳異文 その2


 さて、光文社古典新訳文庫の『変身/掟の前で 他2編』を読んで本当にびっくりしたのは、訳者あとがきに指摘されていた次のような事実であった。
 光文社文庫収録の短篇「判決」に、こういう箇所がある。
 

 「ぼくはほんとうに幸せだ。そして、君との関係もちょっと変化した。といっても、君にとってごくありきたりな友人ではなく、幸せな友人になったということにすぎないのだが。いや、それだけじゃない。婚約者が君によろしくと言っている。」(14ページ)

 
 これは主人公のゲオルク・ベンデマンが友人にフリーダとの婚約を報告する手紙の一節だが、これを池内紀さんは白水社カフカ小説全集4『変身ほか』でこう訳している。
 

 「ぼくは幸せだ。だからといって君との友情に変わりはない。彼女は君によろしくと言っている。」(42ページ)


 「判決」はカフカが生前に出版された小説であるから、テクストは確定されており、どのエディションでもほとんど異同はない。つまり、池内さんは、かたじけなくもカフカの文章を添削してくださった、ということになる。曰く、このほうがすっきりしていいじゃん? 丘沢さんは「じつに簡単明瞭。カットの名人芸だ」と書いているけれども、さて、いかがなものか。ゲオルクのもってまわった言い回しには当然かれの性格が反映されているわけで、それを「君との友情に変わりはない」なんて青春ドラマの主人公みたいな科白に変えてしまうのはどうかと思わないでもない。
 丘沢さんはそれに続けて「しかし気になるカットもある」と「判決」の別の個所を例示している。父がゲオルクに、自分の足に毛布がちゃんとかかっているかと問いかける場面。


 <「ちゃんとくるまれてるか」と父親がもう一度たずねた。返ってくる答えを待ちかまえているようだ。
 「大丈夫、ちゃんとくるまれてるよ」
 「ちがうだろうが!」と父親が叫んだ。答えが質問に衝突したのだ。父親は毛布をガバッとはねのけた。>(光文社文庫版、22〜23ページ)


 「気になるカット」とはどこか。そう、「答えが質問に衝突したのだ」のワンセンテンス。池内訳では、以下のとおり。


 <「ちゃんとくるまれているのかな」
 父がくり返して言った。返答に耳をすましているふうだった。
 「心配ご無用、ちゃんとくるまれていますとも」
 「そうはさせん!」
 父が叫んだ。毛布を力一杯はねのけた。>(47ページ)


ここでも、会話は改行、の原則は貫かれている。ついでに、ほかの翻訳ではどうなっているか、見てみよう。


 <「うまく包るまれているだろうか?」と父がもういちど訊ねて、その答に特別に注意をはらっている様子をみせた。
 「大丈夫、しっかり包るまれていますよ。」
 ゲオルクが答えるやいなや、「嘘だ!」と、父が叫んで、毛布を、一瞬空中にぱっと拡がったほどの勢いで蹴返して、すっくとベッドの上に立ち上った。>(円子修平訳、新潮社『決定版 カフカ全集』1巻、42ページ)


 ここでもくだんのセンテンスは略されている。毛布が宙で拡がるのとベッドの上に立つという動作は、ピリオド奏法の丘沢訳では二つのセンテンスになっているけれども、ここではワンセンテンスで処理されている。もうひとつ。


 <――わしはうまくくるまれているかな? と父親はもう一度言って、その答えを特別待ちかまえているようだった。
 ――大丈夫、ちゃんとくるまっていますよ。
 ――いや(ナイン)! と、父親は、質問に返答があたるや否や、一瞬ぱっと掛ブトンがひろがるほどの力で、それをはねかえし、ベッドの上に直立した。>(長谷川四郎訳、『カフカ傑作短篇集』福武文庫、18ページ)


 長谷川さんは省略はしていないが、三つの文をひとつにまとめている。邦訳はまだほかにもあるが、もういいだろう。
 丘沢さんは、この「答えが質問に衝突したのだ」を「カフカっぽいフレーズ」といい、池内訳を「カフカより高いポジションに立って翻訳したような大胆さ」と評しているけれども、私もまた、このセンテンスをいかにもカフカエスクなフレーズであると思う。丘沢さんがどういう意味で「カフカっぽいフレーズ」と言っているのかはわからないが、私は漫画の吹き出しのように宙に浮んでいる「ちゃんとくるまれてるか」という質問に「大丈夫」という吹き出しがぶつかる場面を思い浮べて、ああカフカだなと思うのである。
 いったいにカフカの小説は漫画っぽい。カフカ自身、友人たちを集めて「変身」を朗読する際に、思わず吹き出して朗読できなかったそうだけれども、「判決」もいかにも漫画っぽい小説で、それをちょっと気取っていえば「道化の文学」ということになろうか。
 かつて粉川哲夫さんは、それをカフカが熱中したイディッシュ演劇の影響であろうと説いたことがある。私は、映画好きのカフカであるから、あるいはアニメーション映画の影響かもしれないと思い、のちに、翻訳の出た『カフカ、映画に行く』*1を読んでみたがはっきりしたことはわからなかった。当時、アニメーション映画はすでに作られていたけれども、まだそれほどテクニックは発展していなかったし、それをカフカが見たという記述はない。しかし、たとえば「判決」の次のような場面はまさにアニメっぽいといえないだろうか。


 (父親に、おまえは溺れて死ぬのだという判決をくだされて)
 「ゲオルクは部屋から追い立てられた気がした。背後で父親がベッドに倒れる音がまだ耳に残っていたが、部屋を後にした。斜面をすべるように急いで階段をおりたとき、お手伝いの女と衝突しそうになった。朝になって部屋を片づけるため、階段をあがろうとしていたのだが、「キャーッ!」と悲鳴をあげて、エプロンで顔をおおった。」(光文社文庫版、29ページ)


 そしてゲオルクが橋から身を投げると、あとには雑踏だけが残っていた、と話は閉じられる。ゲオルクが斜面をすべるように階段を駆け降りるところ、先に引用した長谷川四郎訳では「段々を一枚の傾斜した平面のように駆け下りた」となっている。ここは(白水社版でも新潮社版でも)いずれも「〜ように」と比喩の表現になっているけれども、私はまさにすべり台のように一枚の板になった階段を車輪のように足を回転させながら駆け降りるゲオルクを思い浮かべて愉快になる。ゲオルクとぶつかりそうになった女中が「あれま!」と悲鳴をあげて前掛けで顔を覆う(池内訳)しぐさも、いかにもアニメっぽい。橋から身を投げた後は、橋の上を無限の、陸続たる雑踏が占有する。フェイドアウトしてFINという文字が出てきそうなラストシーンである。カフカの小説が映画に影響を受けたのでなければ、かれの小説は映画を先取りした表現であったといえるのではなかろうか。フェリーニが『アメリカ』(『失踪者』)を映画化したいと熱望したのも故なしとしない。
 ミラン・クンデラは『城』のある場面(十二章)を指して「喜劇的ポエジー」と称しているけれども、カフカの小説にはそうした喜劇的場面が少なくない。が、ここではそれらを指摘するよりも、丘沢さんのあとがきにあるもうひとつの重要な問題にふれておきたい。


 「変身」の末尾ちかくの場面、丘沢さんの訳稿のゲラに次のような一節があった。


 「早朝にもかかわらず、さわやかな外気には、もう生暖かさがまじっていた。もう3月末だった」(124ページ)


 ゲラには、丘沢さんが予想したとおり、ふたつの「もう」にチェックが入っていた。編集者か校正者が訳者にたいして「この表現はこれでいいですか?」と問うているのである。私がこの本の編集者であっても、おそらく同じチェックを入れたにちがいない。私もまた最初の「もう」は不要だと判断しただろう。だが、カフカの原文には「もう」が繰返されている。そして、カフカは繰返しをことさら多用する作家なのである。
 煩を厭わず他の翻訳を参照すれば――


 「この朝の早い時間に、さわやかな大気には、もう幾分のぬくもりが感じられた。今はもう、三月の末だった。」(川村二郎訳、新潮社全集版、1巻、91ページ)

 「早朝にもかかわらず、すでに何やら、さわやかな大気に生あたたかいものがまじっていた。もう三月の終わりだった。」(池内紀訳、白水社小説全集版、152ページ)


 川村訳は「もう」を繰返しているが、池内訳は繰返しを嫌って別の単語で言い換えている。「何やら」と加えるあたりが池内さんの「流儀」か。何やら大山定一流の翻訳を思い起こさせたりもする。
 丘沢さんは「今回の古典新訳文庫では、美しい日本語の基準――なんて、どこにあるのだろう――は無視して、くり返しを意識的に残した」と書いている。ここには、前回述べたように原文に忠実であるとはどういうことか、そして「美しい日本語」という基準が存在するのか、といったきわめてやっかいな、そして大きな問題がさりげなく指摘されている。この問題にたいする回答はじっさいの翻訳文を見てほしいということなのだろう、丘沢さんはそれ以上この問題にふれていないけれども、クンデラは先述した本で、カフカの原文を引きながらこの問題に踏み込んで論じている(単語の言い換えへの批判も)。クンデラの論旨を仔細にたどる余裕はないが、クンデラの重要な指摘のうち、ここでは二つのみ記しておきたい。
 クンデラは、翻訳者にとっては作者の「個人的な文体」が最高権威であり、価値のある作者はだれもが「美しい文体」に違反するのであり、「その違反のなかにこそ彼の芸術の独創性(したがって存在理由)があるのだ」という。
 もうひとつ、語彙の豊富な作家は同じ意味合いの単語をさまざまな単語によって表現するけれども、カフカは語彙の多い作家ではない。それも単語の繰返しが多い理由のひとつであるが、従来それは「カフカの苦行」「非審美主義」として説明されてきた。しかし、「語彙の簡潔さ」は「カフカの審美的な意志(六字傍点)を表現したものであり、それこそが彼の散文の美しさ(三字傍点)の明確な特徴の一つだとは、だれも認めようとしなかった」とクンデラはいう。
 ここでクンデラが述べている「美しい文体」と「散文の美しさ」とが別ものであるのはいうまでもない。前者はcanonとしての「美しい文体」であり、後者は読者一人ひとりがカフカの小説に感受する「散文の美しさ」であろう。
 だが、と私は思う。クンデラのいうように、繰返しがときに一種の旋律的な美しさを奏でることを認めるに吝かでないが、すべての繰返しが必ずしもそうであると限らないし、それを異言語に翻訳した際に、その繰返しが原文同様の旋律的な美しさを奏でるという保証はない。先に例示した一文に立ち戻れば、カフカの意図はともあれ、


 「早朝にもかかわらず、さわやかな外気には、もう生暖かさがまじっていた。もう3月末だった」


「もう」の繰返しに、私は「旋律的な美しさ」を感じない。前者の「もう」を削除したほうが、むしろ簡潔な散文の美しさを表現しえている、と私は思う。それはカフカの「審美的な意志」に反するものであり、私がcanonとしての「美しい文体」に骨絡みになっていることのたんなる証にすぎないのかもしれないけれども。
                                               (この項了)

*1:ハンス・ツィシュラー著、瀬川裕司訳、みすず書房