あなたは勝つものと思っていましたか――『目白雑録2』を読む


 あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ


 むろんこれはW杯の日本対ブラジル戦の話ではなく、昭和二十一年に刊行された歌集『夏草』に収められた土岐善麿の高名な歌であるけれども、日本一次リーグ敗退と一面にカラー写真入りで報道された新聞記事を読みながらついこの短歌を思いだしてしまうというのも、小林信彦が「週刊文春」6月29日号の連載エッセイで書いているように「太平洋戦争開始の時と同じ」信仰に近い「日本楽勝説」のせいで、小林信彦は日本対オーストラリア戦へ向けて「ヒートアップ」するラジオ各局の放送について書いているのだけれども、新聞・TVなどのメディアにおける決勝トーナメント進出の可能性については楽観説が支配していたというか、そう信じたがっているふうであったことは否めない。現実を直視しないという点では「日本人のメンタリティー」(小林)はいささかも変っていないというべきか。「向うの身体能力に立ち向うには、日本は精神力しかありません」というラジオのコメンテーターの言葉に「これは典型的な<戦時中の精神論>である」と小林は感想を述べるのだが、「メディアが日本代表チーム(ジーコ・ジャパンとも呼ぶわけだが)について語る言説を聞いたり読んだりしていると、ほとんど戦時下報道(五字傍点)の冷静さをまったく欠いたナショナリズムと欠点には眼をふさぐ自己規制としか思えない有様である」と書くのは『目白雑録(ひびのあれこれ)2』の金井美恵子である。
 数日来の夏風邪でぞくぞくと背筋に寒気がするので近くのサンドラッグで買ってきた葛根湯エキス配合のなんとかという風邪薬を効き目はあてにせず水で三錠流し込んで横になり、買ったばかりの金井美恵子の新刊を読んでいたのだけれど例によって例のごとくの悪態にくすくすと笑ったり(少なくとも三度は哄笑した)しているうちにあっという間に読み終えてしまった。なかには私の知人たちへの批判というか悪口も含まれているのだけれども批判されている当の本人でさえ怒り出すよりも苦笑するしかないと思われるほど金井の悪態ぶりは堂に入っているというか一つの藝というほかはない。かくいう私も、もう何十年も昔の話になるが莫迦な編集者としてむろん名前は明記されていなかったけれども悪態の対象になったことがあって、金井のエッセイ集のどれかでその文章を読んだときは(まあ先方の誤解もあるのだけれども)苦笑するしかなかったのだが、それにしても目白駅近くの喫茶店での原稿の受け渡しついでの編集者との雑談をエッセイのネタにするとはあまりに世界が狭いのじゃないかと思ったことも事実である。
 しかし、ひるがえって考えれば書きものにおける世界が広いとはどういうことか。身辺雑事のみを題材としないということなら、この『目白雑録2』は、飼猫トラーの病状報告やら目白通りの商店街の様子やら腰痛のために医者に行くと加齢のために軟骨がすり減っていて骨密度も低いといわれたという話やら文藝誌に執筆する小説(雑事か?)のことやらも出てくるには出てくるけれども、一方でイラクに駐屯する自衛隊や人質事件に関するパウエル国務長官の談話への鋭い考察やらフランス暴動に関する報道への違和感やら電車内で若い女性が行なう化粧は谷崎の『細雪』にも出てくるけれども「はしたない」というニュアンスはまったくなかったという文学的考察やらも出てきて必ずしも世界が「狭い」わけではない。取り上げる題材は政治から社会問題、文学、映画そして身辺雑事と多岐にわたっているのだけれども、身辺以外のすべてが新聞や雑誌、書物などのメディアを通してのものであるためつい居職という言葉を思い浮かべてしまったりするのだ。
 だがこの本のそうした側面を、「家にひきこもりがち」な小説家のメディアを通した社会現象批判といった紋切型でとらえるとその本質を見誤ることになるだろう。そうではなく、この『目白雑録』シリーズは金井美恵子の神話批評であるというべきだ。ロラン・バルトはMythologies(1957)のはしがきで書いている。


 「以下の本文はすべて、一九五四年から一九五六年にかけて毎月、ときの現実に従って書かれた。当時わたしは、フランスの日常生活のいくつかの神話について、規則的に考察しようと試みていた。この考察の素材は極めて変化に富むことになり(新聞記事、週刊誌の写真、見世物、展覧会)そして主題は極めて任意的になっている。もちろん、わたしの現実が問題となっているのだ。
 この考察の出発点は、最も多くは、ジャーナリズム、芸術、常識が、或る種の現実、われわれがその中に暮しているからといって完全に歴史的でないわけではない現実にまとわせる、《自然さ》を前にしての、いら立ちの感情である。一言でいえば、われわれの今日的現実の記述において、「自然」と「歴史」がいつでも混同されているのを見て苦しんでいたのだ。そしてわたしは《あたりまえのこと》の装飾的な陳列において、その中にかくれていると思われる観念論的濫用を取り出したかったのだ。」(『神話作用』篠沢秀夫訳、現代思潮社、一九六七年)


 バルトは「神話とは言語である」と書く。言語として表出された社会のイデオロギー(観念形態)への批判、あるいは非神話化。それは「まやかしの暴露」であり、いきおい戦闘的とならざるをえない。
 金井美恵子はメディアに現れるさまざまな言説にたいする苛立ちを隠そうとしない。そして「ほんのささいな言葉づかいに苛立つことが多くなる」と書くようにそれらの言説の細部に徹底的に(「テッテ的に」というべきか)拘る。藝として洗練された悪態に大笑いしながらふと気づくと思いのほか、というよりまったくもってそれらがきわめて真っ当な発言であることに驚かされるということになるのである。


 「それはそれとして、ちょっとした記憶のカン違いというものがある」と金井は池澤夏樹の書評を取り上げ、宮本常一の『日本残酷物語』というタイトルは「そのころ評判になったヤコペッティの映画に由来するものだ」と書く池澤に異を唱えて、『日本残酷物語』が刊行されたのは一九五九年、大島渚の映画『青春残酷物語』が六〇年、ヤコペッティの『世界残酷物語』が六二年、今井正の映画『武士道残酷物語』が六三年と調べ上げ、「なにしろ「残酷物語」は六〇年代初めの大流行語だったのだから、私とほぼ同世代の池澤がカン違いをするのも無理はないのだ」と書く。
 それはそれとして、ナボコフの『ロリータ』の新訳の刊行にふれて「長いこと旧訳の『ロリータ』は絶版になっていたところの新訳である」と金井が書くのはちょっとした記憶のカン違いだろう。河出書房新社から改訳決定版との謳い文句で出た大久保康雄訳『ロリータ』(「エトランジェの文学」シリーズの一冊)はたしかに絶版になって久しいが、同書の新潮文庫版(若干の改訳がなされている)はいまでも新刊書店の棚に並んでいるからだ。だがそんなことは本書の瑕瑾とすらいえないたんなる思い違いにすぎない。『目白雑録2』を瞬く間に読み終えた私はもっと金井の文章が読みたくなって書棚から『目白雑録』(一冊目だ)を取り出してぱらぱらページをめくるとこういう表題が目に飛び込んできた。「夏風邪は馬鹿がひく」。
 金井美恵子のこうしたエッセイには読むものを中毒(ではなく依存か)に陥らせる作用があるらしい。『目白雑録2』で金井は、映画館にゴダールを見に行くと若い男から「お前らみたいなオバサンが、なんでゴダールなんか見に来るんだ、わかりゃしねえのに」という憎悪の視線を浴びせられると書く。「私は心の中で、フン、お前たちの生れる前の、こっちが十二歳の時からゴダールを見てるんだよ、惰性で見続けてるのに決ってるだろ、と言ってやるのである」。私もまた罵声を浴びせられたこともある金井の小説やらエッセイやらのほとんどすべてを数十年来読み続けているのだが、なぜかと問われれば「フン、惰性で読み続けてるのに決ってるだろ」と言ってやるつもりである。


目白雑録〈2〉―ひびのあれこれ

目白雑録〈2〉―ひびのあれこれ