アル中オサベ


 えーと、どこまで話したっけ。そうそう、ヤマチューこと山崎忠昭さんがわけもわからず山川方夫の告別式に出かけた、というところまでだった。時計の針を一ヶ月捲き戻して、その続きを綴ると――


 ヤマチューさんを告別式に拉し来ったのはアル中オサベこと長部日出雄。前夜、新宿の酒場「三角ユニコン」で泥酔した長部さんを近所の旅館に押し込んだヤマチューさんは翌朝、一面識もない、というよりかれが何者であるかも知らない山川方夫の告別式に無理やり参列させられることになった。告別式にはまだ時間がある。二人は早稲田の飲み屋で飲み始め、品田雄吉の運転する車が迎えに来た頃にはすっかり出来上がっていた。夕暮れ、山川宅に着いたヤマチューさんは、酔いと車の振動とで胃の中のものをすべて地面にぶちまけてヘベレケになりながらもなんとか焼香だけはすませ、そのまま控室で眠り込んでしまった。目が覚めると告別式はとっくに終了し、姿の見えないヤマチューさんを探し回っていた長部さんに「葬式に来てグーグー寝るとは何事だ!」と一喝される羽目となった。


 <「葬式、葬式というけど、これは一体ダレの葬式なんです? 山川方夫さんなんて、私は全然しりませんよ」
 私がうっぷんばらしの文句を言うと、
 「ものかきのくせに、山川方夫を知らんのか、このバカヤロー!」
 長部の怒りはひどかった。だが、いくら怒られても知らんものは知らん。私は逆に腹をたてて、品田さんの車に乗らず、電車の駅まで歩いて、売店で買ったウィスキーをチビチビやりながら東京へ舞い戻った。>


 その後、古本屋で山川方夫の『親しい友人たち』を見つけて読んだヤマチューさんは衝撃を受け、「おそろしい傑作だった。長部さんたちが、お葬式にはるばる出かけてゆく意味が良く判った」と述懐することになる。


 『親しい友人たち』は、中原弓彦小林信彦)が編集する「ヒッチコック・マガジン」に連載されたショートショート・ストーリーを主として纏められた小説集で、小林信彦とも親交があり、スタージョンフレドリック・ブラウンなどの五〇年代黄金期SFをこよなく愛するヤマチューさんが山川方夫を知らないとはにわかに信じがたいけれども、そういうものかなという気もしないではない。むろん小林信彦もこの葬儀に参列していたが、もう一人、この葬儀に参列し、気になる挿話を書き残している批評家がいた。江藤淳である。
 江藤は旧版の山川方夫全集第五巻(冬樹社)巻末の「山川方夫と私」という解説的エッセイで、「山川の葬式の日に、私が苦々しく思ったことがもう一つあった」と書いている。


 <それは推理小説雑誌の編集者として山川や私と知り合ったNという人物が、一種異様な躁狂状態ではしゃぎまわり、場所がらもわきまえずに不用意なことをしゃべり散らしていたということである。Nは山川の無二の親友という役割を演じていた。新婚早々のころ、山川が金に困っていた時期に芸能記事の口を世話してやったりして急場をしのがせたのは自分だというのである。>


 Nは山川の「親友」を気取り、江藤がアメリカから送った手紙――山川の小説「愛のごとく」を酷評した――に山川は怒っていた、と江藤に告げる。江藤はそのことがよほど腹に据えかねたのか、手厳しい批評がいかに的を射ていたかを縷述した山川の返信を引用しつつ遅ればせの反論を試み、山川は事故死の十日ほど前に「Nには危険なところがあるから、注意したほうがいいよ」と自分に告げた、とまで書いている。小林信彦は江藤のこの一文をどういう思いで読んだだろうか。
 江藤の書くもう一つの「苦々しく思ったこと」とは、山川が勤めていたPR雑誌「洋酒天国」の上司である「Yという流行作家」のことで、Yが山川をいかに嫌い、いじめたかを、そして山川の死後、彼をモデルにした小説を発表し彼を無能の編集者として揶揄したYの卑劣さを告発している。
 同人誌に書いた江藤の文章を読み、「三田文学」に夏目漱石論を書かせたのは山川方夫である。江藤は「三田文学」に出入りし、編集に携わるようになる。その頃の様子は、先に書いた、坪内祐三が『四百字十一枚』で引用している江藤の文章からも窺うことができるけれども、山川に「漂白したアザラシ」というニックネームを献上したのは江藤淳である。
 思うに、大学院に通いながら文藝批評に手を染め始めた江藤にとって、この頃の若き文学仲間たちとの交友は一種のアルカディアであったのだろう。その中心にいたのが山川方夫である。全集の解説文としては異様な「山川方夫と私」という江藤のエッセイは、珍しくもない文人相軽んずの一例にすぎぬのだろうか。おそらくそうではなく、かれの「花園を荒す」ものへの弾劾文というべきだろう。江藤の山川への親身な友情はまぎれもないが、それと同時に、この文章から江藤の孤独もまた切々と浮び上がってくるかのようである。


 さて、アル中オサベこと長部日出雄さんには私も編集する映画雑誌でたいへんお世話になった。創刊したときの事務所は墓地の裏にある木造アパートの二階で、狭い玄関でスリッパに履き替えてぎしぎし軋む階段を上がって長部さんは手ずから原稿を届けてくださった。あの直木賞作家が、である。えらく恐縮したけれども、しらふの時は腰の低い礼儀正しい紳士なのである。
 一度、銀座の文壇バーへお供したことがある。長部さんは奥で丸谷才一らお歴々と歓談され、私と連れのもう一人は隅っこで物珍しそうにちびちびとやっていたが、やがてだいぶ時間がたってかなり聞こし召した長部さんがホステスさんにサポートされて店を出られた。ママさんも表まで見送りに出て、長部さんが車に乗り込むと「先生をお送りするように」とホステスさんに言いつけた。長部さんとホステスさんが乗ったタクシーは風のように走り去った。私たちは、「ふーん、作家先生にはホステスが同乗して家まで送るのかあ」と、みるみる小さくなってゆくタクシーを口をあけて見ていたものである。


 長部さんが「オール読物」で長年続けている「紙ヒコーキ通信」という連載映画評がある。もう四半世紀以上の長きにわたる連載であるが、83年頃だったろうか、雑誌での連載がいったん終わることになり、長部さんは読者に直接「紙ヒコーキ通信」を届けると誌上で発表した。ちょうどその頃、私も映画雑誌の編集を辞めてフリーランスになっていたので、何かお役に立てることがあれば申しつけてくれるようにと葉書を出した。まもなくうちに電話がかかってきた。「小説家の長部日出雄と申します」と家人に言ったそうである。律儀な人なのである。話を聞くと、直接購読者向けの「紙ヒコーキ通信」を始めると雑誌に書いたものの、編集・印刷の知識がなく発行の目処が立っていないとのことだった。「僕でよければお手伝いします」ということで、私は自転車をこいで長部さんのお宅へ伺った。私鉄の駅で二駅、自転車で十五分ほどの距離なのである。
 私は自分でつくったラフレイアウトを持参し、少部数の印刷をやってくれる心あたりの印刷屋さんを紹介すると言った。用件が終わり、奥様の手料理とビールをいただきながら最近見た映画の話などをしていたが、どれぐらい時間がたったのだろうか、かなり聞こし召した様子の長部さんはゴロンと畳に横になり、肱をついて手で頭を支えた格好で、顔をこちらに向けたまま目を瞑ってしまった。あらら。まいったなあ。私は手持無沙汰でひとり手酌でビールを飲みながら、奥様の助け舟を呼ぼうかどうしようかとしばらく思案していると、やおら長部さんの目が開き、ねめつけるようにこちらをジッと見据えボソッと一言のたもうた。
 「帰りたいんか?」
 そのあとのことは幸か不幸か記憶にない。自転車をこいで家へ帰ったことだけは確かだけれども。酔っ払ってタクシーの運転手と喧嘩をしてぼこぼこにされて帰ってきたら、奥様に「天罰です」と言われたという伝説の酒乱オサベの片鱗を垣間見るだけですみ、ほっと胸をなでおろしたことである。
 後日、一緒に印刷所まで出向いて入稿し、「紙ヒコーキ通信」直接購読版第一号は無事に発行された。あの日のことはたぶん長部さんは覚えていないだろう。いちいち記憶していると生きてはゆけない。四半世紀も昔のこと、もう時効である。
 あとで長部さんから聞いたことだが、第一号を読んだ大江健三郎は「レイアウトがすばらしい」と感想を述べたそうである。