海に散るさくら吹雪


 巖浩(いわお・ひろ)のことを、わたしはなぜか谷川雁のような人だと思っていた。元日本読書新聞の編集長、“伝説の編集者”である*1
 「なぜか」と書いたが、じつは理由がなくもない。ふたりとも九州の生れで谷川雁の本名が巖であること、巖浩の後を継いで日本読書新聞の編集長となった定村忠士と谷川雁とがのちに協働したことなどが渾然一体となってそうしたイメージを形成していたのだろう。そういえば定村忠士は谷川雁と同じく五高・東大卒で、雁の弟の谷川公彦と定村は五高・東大・日本読書新聞日本エディタースクールと行動を共にした盟友である。雁は1923年熊本生れ、巖浩は1925年大分生れである。
 巖浩は七高を出て東京大学に入学した三か月後に応召して陸軍都城連隊に所属、九か月の軍隊生活ののち阿蘇山中にて終戦を迎える。あくる年復学し、49年に卒業して日本読書新聞に入社する。ながねん編集長を務め65年に退社、現代ジャーナリズム出版会を設立。70年より雑誌「伝統と現代」を復刊し、編集長を務める。70年に大学に入学したわたしは、「ユリイカ」や「現代詩手帖」、「情況」「現代の眼」といった雑誌とともに「伝統と現代」も愛読した。わたしが日本読書新聞に入社するのは76年、巖浩や定村忠士、谷川公彦は先輩編集者としてすでに伝説的な名前だった。
 1963年12月、巖浩は当時雑誌「太陽」の編集長だった谷川健一の依頼で、同誌にルポルタージュを執筆するためにアフリカへの遠洋漁業の船に乗り込んだ。のちに「まる九十日の航海と労働の日々」にふれて書かれた文章と短歌が、このたび刊行された『歌文集 浪々』の巻頭に「航海のはなし」として置かれている。


 わが乗るはまぐろ延縄(はえなわ)漁師船泥船ならず縄船といふ
 時化(しけ)荒れて醤油のびんも人間も立つてゐられぬなかで飯食ふ
 マラツカの海峡しんと暗くして投身さそふ海と聞くなり
 いつまでも動く小さき小さき口よまんばうを割く時のかなしみ


 雄渾な詠いぶりだ。
 巖浩は伝統と現代社の倒産を機に妻と二人で沼津の松陰寺に住み込み、浩は寺男としてはたらく。松陰寺はわたしも仕事で訪れたことがある白隠禅師ゆかりの寺である。時に1984年、浩はまもなく還暦を迎えようとしていた。
 沼津での生活を一年半で切り上げ、二人は奈良に移り住む。春日大社の雑務の仕事に就くためであった。巖浩が短歌に親しむようになったのは春日大社での労務仕事を辞めた後、某教授に請われて春日大社で催される万葉文学講座の手伝いを始める1997年のことである。
 本書には如上の浪々の日々をしるした散文と短歌が収められている。


 「昭和六十一年(一九八六)から平成十五年(二〇〇三)まで十七年間の奈良住い。大まかに言えばそのうち約六年が労働生活のつづき、三年ほどが女房瑠璃子の進行してゆく病気との係り、その死後、万葉文学講座を手伝ってこれが五年にわたり、途中から講座の講師のすすめで、併行して短歌なるものを少しずつ作るようになった。」(「奈良残日――此岸と彼岸と」)


 妻の看護と別れとを歌った歌から引いておこう。


 夢とうつつ入り乱れゆく妻と居てともに乱れて一日(ひとひ)暮れたり
 凌霄花(のうぜんかづら)の花を無花果かと指して問ふその名をわれに教へし汝が
 回復の見込みなき妻の片言の「やさしくしてね」に笑み返せしが
 入れ歯はめてやるを忘れし悔ひがある告別の時の死顔思へば


 妻の死後、浩は万葉文学講座で知り合った女性と京都で一緒に暮らしはじめる。現在八十六歳、巖浩の伝記を著した井出彰によれば「巖さんは怪物と呼ばれているほど元気だ」という。
 西日本新聞の評者は、本書を評して「一読、歌に腰折れなく、語るに文飾なく、人生波濤の余響がある」*2と書く。


 海に散るさくら吹雪のたまゆらの白き光をいくたびも見る (花綵列島)


 巖浩の一層の健勝を庶幾する。

〈歌文集〉浪々

〈歌文集〉浪々

*1:同じく元日本読書新聞の編集長で現在、図書新聞代表の井出彰氏の著書に『伝説の編集者・巖浩を訪ねて』(社会評論社、2008)がある。帯文をかつて日本読書新聞の編集者であった渡辺京二氏が書いている。写しておこう。「『吉本・谷川新聞』などと戯称されつつ、安保闘争後の思想状況を切り開いた『日本読書新聞』。低迷する八〇年代に思想の孤塁をまもった『伝統と現代』。この両者を主宰した巖浩は前者の読者をうならせた名コラム『有題無題』の筆者でありながら、青臭い観念が大嫌いな柔道とりでもあった。思想とは生きるスタイルのことだと信じ、出版界から脱離して労務者暮らしまで経験した老辣無双のリベルタンの軌跡がいま明かされる。」

*2:西日本新聞2011年4月17日附け朝刊