境界線上の映画



 暮れも押しつまって、半年前に引越した時のままになっていた荷物の整理にようやく手をつけ始めた。大半は処分していいものだが、一応中身を確かめようとするから手間がかかる。ファイルしておいた文書の中に、むかし書いた文章があった。トリン・T・ミンハの映画祭「境界線上の映画」が国際交流フォーラムで催された際に寄稿したものだ。1999年4月だからもう12年以上前のものだが、読み返して呆れた。前回ここで書いたものとほとんど同じ内容だ。つくづく進歩のない人間である。
 上映されたのは『ルアッサンブラージュ』から『愛のお話』までの5本、上映とともに竹村和子さん、上野俊哉さん、港千尋さんの講演が行われた(講演は前回書いた雑誌に採録した)。以下は、映画祭に先立って刊行された「フィルムネットワーク」14号(国際交流基金発行)に掲載されたトリンの映画の紹介文である。前回の補遺として、あるいは蛇足として掲げておく。


        世界の襞を垣間見せてくれる映画


 トリン・T・ミンハの映画は、見る者に「リアリティとは何か」を考えさせる。
 たとえば、何か異常な出来事に遭遇した時、我々は「現実感がない」と感じたりする。実際に起こっている出来事であるにもかかわらず、そこには「リアリティ」が感じられない。つまり、リアリティとは対象そのものにあるのではなく、それを感受する我々の心の(脳の?)なかの出来事なのだ。だから現実よりも虚構に、時にリアリティを感じたりもする。世界には、私のリアリティやあなたのリアリティや彼や彼女のリアリティが重層的に折り畳まれている。そうした世界の襞をトリンの映画は垣間見せてくれる。
 『姓はヴェト、名はナム』で、ヴェトナム戦争の悲惨な記憶を語っていた女性がじつは女優で、シナリオに基づいて演じていたことが映画の途中で明かされる。観客は、ドキュメンタリーの「確からしさ」への再考を促されるが、トリンはここで、ドキュメンタリーは現実をそのまま映し出したものではない、ということを訴えたかったのだろうか。おそらくそうではあるまい。いや、それだけではあるまい、というべきか。
 昨年、お茶の水女子大学ジェンダー研究所の客員教授として来日したトリンは、あるインタビューで、アフリカで音楽教師をしていた時の経験について語っている。
 トリンは古典的な西洋音楽を教えるのでなく、生徒たちにこう問いかけながら、彼らの音楽環境へと目を向けさせたという。「もしすべての物体が固有の音とバイブレーションを持っているとしたら、西洋的な約束事である音楽とノイズとの境目はどこにあるのか?」
 トリンはここで、生徒たちが知らず知らずのうちに身に付けている音楽というものに対する固定観念に揺さぶりをかけている、といえるだろう。そして、生徒たちは「音楽を専門的な知識としてではなく、人間の生活に到来するモノ、あるいは出来事として聞くようになった」という。それが彼らにとっての音楽の「リアリティ」なのだと。
 音楽はステージやCDのなかにのみあるのではない。ノイズも、ある時、ある状況の下で、一回限りの音楽として不意に到来するかもしれない。それが「リアリティ」だとトリンは言っているのだろう。
 ひるがえって、『姓はヴェト、名はナム』で、女優の語る「現実」が虚構されたものであるなら、そこにはリアリティは存在しないのだろうか? 観客がその語りにリアリティを感じたとしたら、そのリアリティは偽のリアリティなのだろうか?
 そう自問するとき、リアリティはもはや単一の確乎とした何物かではありえない。
 映画は世界のように、歴史的な出来事のリアリティ、身体のリアリティ、声の、リズムの、光線のリアリティが幾重にも織り重なっている。そして、いま、ここでの一回限りの出来事として観客に到来する。
 だとするなら、この文章を読んで、女優が語っていると知ってしまったあなたがこの映画を見るとき、あなたはどこにリアリティを見いだすのだろうか。  (1999.3.31)