生の深さ――ジョイス、小津、フェルメール
頃日、加藤典洋の『小さな天体』を読んでいる。副題に「全サバティカル日記」とあるように、勤務する大学のサバティカル休暇で2010年3月末から翌年の同時期まで、デンマークのコペンハーゲンとアメリカのサンタバーバラで過した日々の日記である。タイトルの「小さな天体」は、この日記が連載された雑誌「考える人」の当時の編集長から届いたメールにあった言葉から取られている。地球のこと。
読みはじめて、これは急いで読む本ではないなと思い、かばんに入れて電車のなかで少しずつ――1日十ページほど、日記でいえば1〜2週間分ぐらい――読み進めている。「そうそう、今日はこんなことがあってね」と著者から語りかけられているようで、そのfamiliarな感じがここちよい。わたしは著者と面識はないが、雑誌の座談会などに掲載されていた著者の顔が行間から浮んでくる。著者のパートナーがAという仮名で登場する。筆致によって人柄の一端は伝わるけれども具体的な像はむすばない。だがこの日記において重要な登場人物の一人である。
最初のほうにこんな言葉が書きとめられている。5月9日。ケンブリッジ大学で講演をするためロンドンへ行った際、アイルランドのダブリンでジョイスが通っていたというパブや、スウィフトが主席司祭を務めていた聖パトリック大聖堂などを訪ねる。ジェイムズ・ジョイス・センターの室内、「溶暗のなかに、ジョイスの言葉が浮かんでいる」と、英文とその訳文を記している。
“The supreme question about a work of art is out of how deep a life does it spring.”
「一個の芸術作品に対する最高の問いは、生がどれだけの深さから汲まれているか、ということである」
これは芸術作品を評価するときのひとつのcriterionになるだろう。あらゆる芸術作品に通ずる尺度である。モーリス・パンゲの美しい小津論のタイトル「小津安二郎の透明と深さ」を思い出す。パンゲは小津の映画をフェルメールの絵画に同定し、「我々の生は意味をもつのか、世界は現にあるがままで存在する価値があるのか」と問いかけ、こう自答する。
「画家の手は(むろん映画監督の手も――引用者注)この世界のそれまで見落とされてきた栄光を我々に指し示しているのである。我々の狭く限られた、しかし突如無限のものとなった生に対して、我々はウイと肯定の答えを与えるようになるのである」
好い言葉を知った、と思った。出典は不明。時間があればエルマンのジョイス伝でも調べてみよう。
こんな記述がある。5月18日。「昨日午後、Aと一階まで階段をおりて通りに出てみると、木々の緑がまぶしく輝いていた。陽光が街を包み、吹きすぎる風が気持ちよい。「寒い」という感覚から自由になると、こうもまわりが違って感じられるものか。見たことのないコペンハーゲンの街がそこにあった」
北欧の長く暗い冬から、ある日、一転して春の訪れを感じる。その驚きがしずかに伝わる。こうも書いている。
「コペンハーゲンでは、春は気づかれないようにひっそりとくる。後ろから手をまわしてある日、両手で目隠しする。見えない。でも春が来ているのがわかる。そういう挨拶を受けたように思う」
かつて滞在したパリでの最初の春の訪れはこんなふうであったという。
「ある朝起きると、信じられないような陽光が通りにみちていた。思わず娘を呼び、二人で街に飛び出した。通りを颯爽と歩いていく女性の、細く白いパンツ姿から、くっきり小さな明るい下着の色が浮き出ていた」
その光景が目にあざやかに浮ぶようだ。パリジェンヌの健康なエロティシズム。
マラルメはパリ郊外で、いつもより早く訪れた夏が黄金色に染めはじめた平野をヴァレリーに指さして言った。
「見てごらん、あれは秋のシンバルが大地に打ちおろす最初の一撃だよ」
そして秋がきたとき、「彼(マラルメ)はもういなかった」。
パリは、春の訪れも夏のそれもいさぎよい。これから寒さの峠を越えなければならない日本では、春が待ち遠しい気分。どんなふうにして春は訪れるのだろう。
『小さな天体』は400頁もあるので、こんな調子で読み進めていると読み終えるのにひと月はかかるだろう。だが、そういう読み方にいかにもふさわしい本だ。いずれまた、感想を書いてみよう。
- 作者: 加藤典洋
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/10
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