大島渚が亡くなった。大島さんには30年前、『戦場のメリークリスマス』の公開にさいして本を2冊つくったときに聊かの面識を得た。記憶にのこる出来事などもあるけれど、今回はちょっと別のことについて書いておきたい。
今月21日の朝日新聞朝刊に篠田正浩、吉田喜重と映画評論家の樋口尚文の追悼文が掲載された。吉田さんの短い談話が、大島さんと自分との気質や志向するものの違いを強調していて心に残った。ちょうどいま編集している本の参考に篠田正浩や吉田喜重の著書を読み返したりしていたのでひときわ感慨深いものがあった。
よく知られるように松竹大船撮影所から相次いで監督となった大島、篠田、吉田らは松竹ヌーヴェルヴァーグと称されて脚光を浴びた。命名したのは当時週刊読売の記者だった長部日出雄さんである。むろんフランスのヌーヴェルヴァーグにあやかってのものだが、従来の映画を批判的に乗り越えようとする意志において彼我の新進監督に共通するものがあった。だがそれは個々の芸術的志向に係わるもので、少なくとも日本の場合は、ある種の同志的意識はあったにせよひとつの芸術運動としてのエコールではなかった、と吉田さんは追悼文で言葉すくなに語っている。
≪私たちは「松竹ヌーベルバーグ」と呼ばれるようになるのだが、しかし、私たちの作品を、あたかも一つの運動のように扱われることに抵抗し、そのことを会社に申し入れたが、聞き入れられなかった。≫
松竹は、彼らの芸術的志向を営業上の戦略として利用しようと目論んだわけだが、『日本の夜と霧』上映中止をめぐって大島渚が早々と松竹を退社するに及んでその目論見はあっけなく潰え、ATGに舞台を移して彼らの志向は結実することになる。
さて、大島が退社した翌々年の1963年の正月に鎌倉でおこなわれた新年監督会での出来事は吉田、篠田らの著書によってよく知られている。小津安二郎を中心に、渋谷実、木下恵介、小林正樹、中村登といった松竹の大御所、中堅それに吉田、篠田ら新進監督らが集った席でそれは起こった。かいつまんでいえば、小津が吉田を名指しで批判するという「事件」である。前年、「シナリオ」誌(10月号)に掲載された合評会で小津の『秋刀魚の味』を取り上げたさいに、『小早川家の秋』の若者の描き方について「年よりが厚化粧をして踊ってるといういやらしい部分がある」と吉田が批判した。それを指してであろう、小津が「オレは木下や小林は好きだが、吉田君、君は気に入らんね。君にオレのことが分かってたまるか!」と吉田喜重を名指して攻撃したというのである。「吉田は黙って小津さんを正視しつづけていた。その冷静な態度に小津さんの言葉はますます激しく」なったという。これは篠田正浩が著書『闇の中の安息』でつたえるところである。
小津の『東京物語』に助監督としてついた高橋治はのちに篠田をはじめとする多くのスタッフや俳優たちにインタビューをして小津安二郎の肖像を描いた。『絢爛たる影絵 小津安二郎』と題されたその本で高橋は篠田の著書から前掲の箇所を引いたうえで、さらにこう付け加えている。
≪吉田によれば、監督会が始まって早々だったという。座敷の中央で床柱を背負う席の小津がふらっと立って来て末席の吉田の前に座った。吉田は監督会への入会を歓迎されるのかと思った。
「俺はな、橋の下で菰をかぶって春をひさぐ夜鷹なのさ。吉田君、君は橋の上にいるのだろう」
吉田には小津のいわんとするところがわからなかった。
「橋の上に立っている人間なんだろう」
吉田には答えようがない。
「橋の上に立って、橋の下の世界を見下しているんだろう」
なにかがわかりかけて来たが、吉田にはまだ小津の真意がつかめない。
「俺は確かに夜鷹だよ。でも、それで良いと思ってる。いや、映画作家なんてものは、所詮そんなもんだ。橋の下で客の袖を引くのさ。橋の上になんて、とっても恐れおおくて立てないね」
(略)
吉田は二時間近くただ無言で小津を見返し、小津は橋の下と上の話を繰り返し続けた。≫
有名な逸話である。多くの書物でこの「事件」は取り上げられた。だが、わたしには納得のゆかないところがある。わたしの考える小津安二郎、小津さんのイメージとどうもそぐわないのである。篠田正浩も高橋治も小津を間近で見てよく知っている。彼らのつたえる小津像に誤りのあるはずがない。高橋は引用した箇所の少し前でこう書いている。新人監督の登用によって大船に序列の乱れがあった。小津は「旧秩序の頂点にある人間として、一言せざるを得ない」立場にあった。また、監督会では酔った「小津の辛辣きわまる物言いを楽しんだ」ともいう。だがそれは「会社側の人間」に対してであって、三十歳も年下の新人監督が投じた批判にむきになって反論する小津さんの姿はわたしに思い浮かべることができない。
当事者であった吉田喜重はこの出来事を著書『小津安二郎の反映画』でこう書いている。
≪宴会が始まるとともに、小津さんはわたしの前に来て座り、黙って酒を注いだ。それからは宴会が終わるまで、小津さんとわたしはほとんど言葉をかわすこともなく、ただ酒を酌みかわした。(略)
そして酒を酌みかわすうちに、酔いがまわってきた小津さんは、さりげなくわたしに語った。
しょせん映画監督は、橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ。
それは小津さんらしい戯れであり、諧謔に満ちた表現であった。≫
吉田喜重がこのように書いたのはあの出来事から三十年以上たったのちのことである。その間に何度も反芻しただろう。また、小津の映画にたいする見方も変化し、また深まっただろう。そうしてあの出来事をふりかえった時に、事実は一種の象徴的情景に昇華したということもできよう。高橋治の描く一場の光景はいかにもドラマチックに見えるが、よく読むと作り物めいてもいる。吉田喜重の描く同じシーンはそれにくらべると深い。深くて澄んでいる。モーリス・パンゲが「小津安二郎の透明と深さ」でフェルメールの絵画に比して称揚した小津の映画そっくりに。
「小津さんは反論するかわりに、黙ってわたしに酒をすすめたのである。小津さんとは、そういう人であった」と吉田喜重は書いている。わたしの考える小津さんもまたそういう人である。
吉田喜重は別の場所でこの出来事についてこう語っている。
≪そのこと(雑誌での批判)について小津さんは反論されるのかと思ったのですが、そこは小津さんでした。「吉田さん、飲めよ」と、お酒を注いでくれるだけでした。
それからは小津さんとわたしが黙って酒を注ぎあうだけで、新年宴会はお通夜のようになってしまった。渋谷(実)さんが、「なぜ吉田君だけ、さんづけするんです?」と冗談めかして言っても、小津さんは「この人は、さんづけでいいんだ」と答えて、わたしに酒を注ぐだけでした。
それから二時間ほどたち、かなり酔った小津さんは、「おれは橋の下で菰をかぶって客を引く女郎。吉田さんは橋の上に立って客を引く女郎」と、ひとこと言われたことを鮮明に覚えています。
あの小津さんにしても、コマーシャリズムのなかで、時代に合わせて撮らざるをえないことに、ホゾを噛んできたところがあったに違いない。「あなたはコマーシャリズムと断絶してでも、やれるのか」という問いかけを、小津さんはしたのだろうと思います。≫*1
高橋治の書く「橋の下と上」は、吉田喜重のこの発言をもとにしたのだろう。だがそこに微妙であるが大きな差異がある。高橋はこう書いている。「俺はな、橋の下で菰をかぶって春をひさぐ夜鷹なのさ。吉田君、君は橋の上にいるのだろう」。さらにダメ押しのように「橋の上に立って、橋の下の世界を見下しているんだろう」と言わせている。吉田の聞いたのはこうである。「おれは橋の下で菰をかぶって客を引く女郎。吉田さんは橋の上に立って客を引く女郎」。あえて言うまでもあるまいが、小津はこう言ったのである。「おれは橋の下、吉田さんは橋の上、いずれにせよ所詮女郎にかわりはないんだよ」と。「厚化粧をして踊ってる」という批判に、首筋に白粉をはたいて客を引く夜鷹に映画監督をたとえた小津一流の諧謔である。橋の下はいかにもローアングルを好んだ小津らしい。小津のこのことばは若い監督への慈愛すら感じさせる。
新年会の後、木下恵介は小津に「あなたは、一人の弟子も監督にできなかったことに責任を感ずるべきです」と語ったという。篠田正浩はそれにつづけて「小津安二郎のような作家の周辺に、後継者を生むことは不可能である」と書いている。たしかに大船で小津は後継者を育てられなかったかもしれないが、その後、周防正行やヴェンダースやキアロスタミといった小津を師とあおぐ映画監督たちが世界中に輩出するとは木下も思いもよらなかったろう。
大島渚が大船撮影所で二作目の『青春残酷物語』を撮ったとき、小津はこう評したと高橋治は書いている。
「どうだいあの剛速球。それにしても見事なまでのコントロールのなさ。金田正一だね、あれは。大物になるよ」
若き新人監督の素質を見抜いた小津の目にくるいはなかったのである。
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