「世のなかは絶えまのない動きのなかにあり、変化は最終的には常に進歩の方向にあるのです」
こういう文章をわたしたちはよく見かける。評論や論文などの書物のなかであったり、演説で耳にしたりする。そして、こういう言い方をわたしたちはすこしも怪しまないが、ちょっと「かみしもを着けた」ような言い方だと感じる。つまり、日常会話のなかではあまりつかわない文体であり、それは「動きのなかにあり」や「進歩の方向にある」という言い方による。これはいわば「欧文脈」であり、こういう文章がわたしたちにかなり馴染みのあるものになっているとすれば、それは翻訳文がそれだけわたしたちの日常に浸透したということだろう。
英語の例文は以下のとおり。
The world is in constant movement, and in the long run change is always in the direction of progress.
上掲の和文は直訳だが、「こなれていない」とは感じない。だが、別の訳し方をするとこうなる。
「世のなかは絶えず動いていて、変化というものは最終的には常に進歩に向かうのです」
ここでは、constant movementやdirection of progressといった名詞句が動詞化されている。ほんのすこし砕いて言えば、日常会話になるだろう。
後者は、方丈記冒頭の有名な一節、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし」を思い出させもして、わたしたちの感覚によりしっくりあうといえるだろう。
以上の英語例文と二通りの和訳は片岡義男の近刊『日本語と英語』から引いたものだ。本書の最後のほう、あとがきの手前に、方丈記冒頭の英訳(英訳本より)がある。
Ceaselessly the river flows, and yet the water is never the same.
片岡義男は次のような注釈をほどこしている。
《「ゆく河」という部分の「ゆく」が、すぐあとの「絶えずして」と合体してひとつになり、英訳の冒頭にあるCeaselesslyのひと言になっているような気がする。「もとの水」の「もとの」も英語に翻訳するときにはやっかいだったろう。理屈で厳密に言うなら、その河に水が流れ始めた日に、まず最初にそこを流れた水、というようなことになる。そのような水を「もとの水」と呼ぶなら、それは過去のある瞬間に確かに存在したのだが、それ以後は「もとの水」などどこにもない。だから英訳では、単にthe waterとなっている。》
さて、上掲の例を、英語の名詞句を動詞化するとより日本語らしくなる、というふうに敷衍することができるだろうか。ことはそれほど簡単ではない。片岡義男がこの小さな本で強調するのは、むしろその逆なのである。そのあたりを本書の第一章「動詞はどこへ行くのか」で仔細に述べている。
たとえば「みなさんの応援のおかげです」という和文に動詞はない。主語もない。これを英語で言うなら、
Your support helps me get motivated.
となる。つまり《meをmotivateすることをyour supportがhelpする》、すなわち「みなさんの応援がわたしのモチベーションを上げることに役立った」ということである。
《(英語の例文では)動詞が最前面に明瞭に姿を見せて機能するし、そうするほかにないのだが、「みなさんの応援のおかげです」という日本語の言いかただと、「みなさんの応援のおかげです」という状態が述べられているだけであるのは注目に値する》
あるいは「自分にとっていちばん大事なこと」。
これを英語にしてthings that are most important to meと言うと《決定的に物足りないものがあるのを感じる》と片岡は言う。
《「いちばん大事なこと」という言葉が最適な動詞ひとつに置き換わると、それは英語になる。そしてそれはmatterという動詞だ》
つまり、《things that matter most と言えば「自分にとって最大に価値あるものとして作用するもの」という意味の端的な言いかたの英語になる》というわけである。matterは《「価値があると断定する」という意味》の動詞だから、片岡はそうは書いていないけれども、「自分にとって」は含意されているということなのだろう。英語ではmatterという動詞が決定的に大事であって、それに引換え日本語では動詞は存在せず、ここでも「状態が述べられているだけ」だ。
《「いちばん大事なこと」という日本語の言いかただと、それが自分にどのように作用するのかを言いあらわす動詞が、完全に隠れている。英語だと、誰の目にも明らかに、誤解のしようもなく端的に、それは真正面に露出されている》
もう一例だけ引用すると、片岡はこんな例を挙げている。
《「きみにとやかく言われる筋合いはないんだ」という日本語のどこに動詞があるのか、と僕は思う。「言われる」は動詞だろうか。「きみにとやかく言われる筋合いはないんだ」という言葉のつらなりのぜんたいが、「きみにとやかく言われる筋合いはない」という自分の状態を表現している》
英語で言うなら、
You just mind your business. Don’t tell me mine.
《英語の場合はIがyouにあたえたmindそしてdon’t tellのふたつの動詞によって、未来におけるyouの行動を規制しようとする。「とやかく言われる」という受動態も興味深い。最終的に表現したいのはいまの自分の状態なのだから、その自分は受動にまわったほうが、状態になりやすい。そしてmindとdon’t tellのふたつの動詞は、あたえられた相手だけではなく、発話者のIも、ほぼ等しく引き受けている》
動詞がyouやIを引き受けるとはどういうことか。これは片岡が別の個所で書いているように、mindやdon’t tellは《Iやyouの思考や行動を引き受けて言いあらわす動詞》ということである。そこには明確に主体があり、思考や行動がある。
《英語では、なんらかの動詞によって、そうなっていきつつある動態として表現されるものが、日本語ではすでにそうなっている状態が、名詞で言いあらわされる。そうなっている状態とは、Iやyouによって思考され行動された結果のものではなく、いつのまにかそうなり、いまもそのとおりそこにある、その状態というものだ》
そこから片岡は以下の「結論」めいたものを引き出す。
《なにごとも動詞をとらずにすませるための主語の不在。思考が嫌いなのだろう。というよりも、それが出来ない。主語は隠れていることがほとんど常に可能だから、主語の主語たるゆえんである思考も隠れる。つまりそれは出来ないし嫌いだとなると、当然のこととして、思考に基づく行動も嫌いだろう。だから思考と行動の両方を放棄しても、日常の言葉を日常的に使って日常を営むには、いっさいなんの不自由もない。
いつのまにかそうなっていて、いまもそうなったままの状態のなかに、人々は入りたいと願う。いつのまにかそうなって、いまもそのままに、そこにある状態。人々はこれが大好きだ。だからそこに自分も入りたがる。いつのまにかそうなってそこにある状態とは、現状とその延長に他ならない。それが大好きでそこに入っていたいのだから、いまそこにあるその状態には、身をまかせるかのように従わざるを得ない。なんの疑問も抱くことなく、ほぼ自動的に従う。だから問題はなにも見えないし解決もされない。現状は悪化していくいっぽうだとしても》
う〜ん。半分はうべなうことができるけれども(わが身を振り返って心当たりがなくもない)、もう半分は、ちょっと早計じゃないかなあという気がする。文章の構造から日本人一般の性向を決めつけるのはどうかしら。それに、付和雷同で他人まかせといったよくある「日本人論」と大同小異でもあるし。
片岡義男はこの「結論」にいたる前に次のように書いている。
《主語は必要ない、という日常の言葉で、日本の人たちはその日常を生きる。自分は言葉で生きている、というような自覚などいっさい必要がないほどの日常だ。そしてそこは主語のない世界だ。言葉の構造によって言いあらわされる内容のなかに、主語は内蔵される。したがってそれは暗黙の了解事項であり、いちいちおもてにあらわれる必要はないし、言葉の構造じたい、常に主語を明確に立てるようには出来ていない》
そこから性急に日本人論へと向かうのでなく、日本の人たちの生きる日常の肌ざわりにもう少し目を向けてみたいし、文章の美学としても考えてみたい、とわたしは思う。
- 作者: 片岡義男
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2012/10/05
- メディア: 新書
- 購入: 3人 クリック: 52回
- この商品を含むブログ (10件) を見る