世の中にまじらぬとにはあらねども


 「ファッション誌の人たちは、ジーンズと言わない」と、林真理子が週刊誌の連載エッセイ「夜ふけのなわとび」で、最近の言葉遣いについて書いている(「週刊文春」10月19日号)。ファッション誌の人とは、林が寄稿するファッション雑誌の編集者の謂だろう。では何というか。「デニムと言う。一年前から必ずそう言うようになった」。デニムという言葉はずっと以前から使われていたけれども、デニム=ジーンズになってしまったということか。「なぜだかわからないがそう決められたのである」。そう、世の物事はたいていなぜだかわからないが知らないうちに決められているのである。私などいまだにGパンである。松田優作の世代なのである。
 「若い人は知らないだろうが、パンツのことを二十年ぐらい前まではパンタロンと呼んでいた」。ベルボトムのズボンですね。ま、早い話がそれまでラッパズボンと称していたものをちょっと気どってそう呼んだのだけれど、パンタロンは今ではさすがに「おフランス」ぽくて恥かしい。「カットソーしかり、ポジティブという言葉しかり、あっという間に世の中に広まってしまう」。Holy Smoke ! 広まっているのか。「どういう意味か聞く間もなく、そういうことになってしまうのである。なんかやーな感じだ」。
 『ルンルンを買っておうちに帰ろう』でデビューした林真理子の言葉だけに世の無常を感じさせなくもない。世の中から取り残されていると感じるのかもしれないが、カットソーやらポジティブやらのはびこる世間などから取り残されてもかまわないではないか。


 世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる


良寛師も詠っていられるではないか。私などはそう思うのである。
 むろん、林真理子は文章の修辞としてそう書いているのであるから、それをそのまま本音と受け取るわけにはゆかないが、林が次のように書くとき、私もまた肯かざるをえない。「尊敬している、と日本語で言えばいいところ、最近はネコもシャクシも「リスペクト」だと」。最近、某政党の代表の地位に就いた人も片仮名を多用すると週刊誌などで揶揄されていたが、外来語の類は多用すると滑稽である。かの総裁は余人の窺い知れぬ思惑があってあえて滑稽を演じているのかもしれないけれども。
 それはともかく、林が続けて紹介する挿話には聊か首を傾げるところがあった。林が書いている小説のゲラの、「いきしなに栄養ドリンクを飲んでいこうか」という主人公の科白に、編集者が次のようなメモを附してきたという。「今の若い人が”いきしな”なんて言いません。”行く途中で”に直したらどうでしょう」。世の中がこういうことになっているとは知らなかった、「何だか自信がなくなってしまった……」と林は慨嘆する。
 編集者自身が「若い人」であり、自分の周囲を見渡してそういう言葉が使われていないと判断したのだろう。だが、その小説の主人公が「若い人」であったとしても、その親とのあいだには世代の開きがある。親の使っていた言葉に識らず染まっているということもあるだろう。そうした背景を勘案すれば、その言葉遣いも充分あり得よう。要は、「今の若い人」が「いきしな」という言葉を使うかどうかではなく、当の主人公が「いきしな」という言葉を使う人間かどうかが問われなければならない。小説家であるのならこの程度のことで自信をなくさないでもらいたい。もっとも、自信云々もまたレトリックの一つにちがいあるまいが。


 ところで、私は大西巨人の小説を、評論・随筆とともに多年愛読してきた。就中、大西の小説の登場人物の科白に大いなる感興を催してきた。一例として手近にある近作『縮図・インコ道理教』から引用しよう。


 「君とおなじような気持ちになる節(ふし)が、私にも皆無ではないものの、二〇〇三年春季大会でB君と問答した際に、私は、B君のそういう答えを予感予想していたようだ。『インコ道理教という宗教団体にたいする国家権力の出方を、人が、<近親憎悪>という言葉で理会する』とは、何事を意味するのか、――その解答を、次ぎの機会までの二人にとっての宿題にしておきましょう」


 件の編集者なら、人は決してこんなふうに喋ったりしません、と猛烈に赤字を入れてくるかもしれない。ここで問題となるのは、小説という虚構の構築物におけるリアリティとはなにか、である。小説で語られる会話は、この現実社会における会話に準拠すべきであるのだろうか。ことは会話に限らない。小説内の一切の事柄は現実社会を準拠枠としなければならないのだろうか。夷斎先生は五十年余の昔に書いている。


 「美はことばのはたらきにあつて、人間像の近似値には無い。書かれた人間像と実在の人間との関係の上なんぞには、じつに何の芸術的意味も無い。実在の人間といふ観念は、ことばのはたらきに於てはじめて固定されて来るものである」(『夷斎筆談』)


 実在の人間が近似値的に写し取られるのでなく、言葉のはたらきによってそこに人間があたかも実在するかのように立ち現れる、それが小説であると石川淳はいう。リアリティとは、現実らしさではない。事物の確かさの謂にほかならない。
 佐藤亜紀は近著『小説のストラテジー』で書いている。


 「(小説が)リアルか否かを判断する材料は二つです。ひとつは、自分やその周辺の人々が現実だと信じている世界と、小説が描き出す世界が合致しているかどうかです。参照される現実世界自体、イデオロギー的に造り出された虚構であることがほとんどです。もうひとつは、小説の中で記述される断片的な事物が、一定の整合性をもって背後の世界の存在を示唆しているかどうか――作品に固有の世界をいかに具体性を持って成立させるか、です。(中略)
 現代を舞台にした小説の場合、読み手は、自分で経験し、知っていると確信する世界に照らしてリアルであるとかリアルではないとか言うのですが、それはその世界がリアルだと仮定した場合のみ有効な判断であって、参照される世界自体が虚構だとすれば、全く意味を持ちません。書き手と読み手が同一のイデオロギーに基づく虚構の世界を共有していたと言うに過ぎない訳ですから。もちろんそうやって小説を組み立てることも出来ますが、裏も表もない世界から既知の物や事が汲み上げられるだけですから、記述はもはや小説とは言えないくらい鈍くなります。無反省に書かれた現代物がどうしようもなく退屈な理由です。」


 この現実世界がリアルであるなら人は小説など読む必要はないし、藝術などにふれる必要もない。小説に限らず、詩であれ短歌であれ、「ことばのはたらき」によって束の間現出するもの、それがリアルであり、事物の確かさにほかならない。むろん言葉のみならず、絵画であれ芝居であれ写真であれ映画であれ事情は異ならない。三十一文字で切り取られたとき、あるいは印画紙の上に定着されたとき、人ははじめて人生の奥深さやこの世界の確かな姿を目にすることができるのである。美しい風景を見たとき、まるで絵のようだと人はいう。画家は美しい風景を絵筆によって写し取るのではない。そうではなく、画家によって描かれた美しい風景によって、人は風景の美しさにはじめてふれることができる。represent、再現=表象することによってのみ人は世界とふれあうことができるのである。プリクラに写してはじめて少年少女たちが互いの関係性を目にすることができるように。
 
 大西巨人の小説世界は、そのきわめて論理的な科白をふくめ、言葉によって固有の世界を具体性を持って生き生きと現出せしめている。佐藤亜紀が引いているバルザックディケンズの世界と同じように。
 ところで林真理子は編集者の意見を容れて「いきしな」を「行く途中で」に直したのだろうか。件の編集者の思惑とは逆に、「行く途中で」の世界に「いきしな」が亀裂を入れたときに一瞬現出する世界を小説のリアリティと称するのである。