『映画の呼吸――澤井信一郎の監督作法』を読む


 『映画の呼吸――澤井信一郎の監督作法』(ワイズ出版)を読む。
 グラフィックデザイナーで見事な映画批評の書き手でもある鈴木一誌さんが、澤井さんにインタビューして纏めた本。昨年十月に刊行された本だが、ようやく読むことができた。澤井さんの手がけた全監督作品はむろんのこと、助監督作品(フォースからチーフにいたるまで)、脚本、TV演出にいたるまで、ときにビデオで確かめながら場面場面を詳細に検討してゆく対話を月に一度、一年半かけて行なったものであるだけに、きわめて内容の濃い厚みのある書物(じっさいに二段組四百頁以上)になっている。澤井さんの自伝であるとともに、『ヒッチコックトリュフォー』を想起させる澤井流演出術の書であり、なによりも第一級の映画製作の教科書である。
 詳細に語られるのはデビュー作の『野菊の墓』、ついで第二作の『Wの悲劇』で、この自作解説には圧倒されるというしかないが、ここでは後半の作品『日本一短い「母」への手紙』(95)から目に留まった発言を取り上げてみよう。
 娘と母が部屋で鉢合わせをする場面を澤井さんは例に挙げ、どのように撮影するかを語る。まず部屋の広さは六畳一間というわけにはゆかない。いままで離れて暮らしていた二人の心理的距離を、母が近づくと娘が避けて遠ざかるというふうにアクションで演出するために、台所、ベランダなどを含むある程度の広さが必要となる。
 そして画面には、まず二人が同時に映るカットが必要である、と澤井さんはいう。つまり二人が部屋を移動するときの「起点と着点の両者を同一フレームに収めておかないと、位置の説明にもならないし、緊迫感も出ない」。それぞれの移動のアップかバストのショットだけでは両者の近づきと遠のきの距離感が観客に伝わらないからだ。
 たしかにTVドラマなどでは、こうした原則に頓着しない例をよく見かける。切り返しでなく2ショットであるから当然ミディアムかセミロングのショットになるはずだが、TVドラマではやたらとアップやバストを多用してアクションによる緊迫感が出ないため、表情による説明的な演技に頼るという悪いパターンに陥ることが多い。最悪の場合は心理を台詞やモノローグで説明することになる。こういう具体的な指摘は映画撮影の初心者には有益だろう。
 あるいは、同じ映画で母娘が和解する場面は、実際の映画では二人が詫びの台詞を言って抱き合うという三分半のシーンだが、澤井さんはデ・シーカの『ひまわり』のソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニが再会する二〇分におよぶ場面を詳細に説明しながら、そうした演出も一応は考えたと語る。
 『ひまわり』では、数年ぶりに再会した二人が空白の期間について語り合うという場面で、部屋が停電になり、二人は停電を話題にしたり、台所へ蝋燭を取りに行ったり、途中で泣き出した子どもの声に子ども部屋へ行ったり、と「空白の語らいを何度か中断させて進行し、二人の関係が修復不能と納得させられる。停電、ロウソク、赤ん坊の泣き声といった現実のファクターを持ち込んで、進行している空白の会話をそのつど止め、感傷的にならないようにと関係を冷まし、また本筋の会話に戻る」のである。澤井さんは『ひまわり』と同様に、母娘の和解の場面を、場所を移動させたりして中断させてみることも考えたが「中断が感情を冷ましてしまうのではないかと心配になり、一気呵成に走ってしまった」と語る。
 「しかし、泣かせました」という鈴木さんの合いの手に「泣かせはするのですが、『ひまわり』のように人間が生きるとはこういうことなんだという、泣きも笑いもできない人生の深みに行き着けない。こういう反省は強くありますね」と応じている。
 母娘であれ元夫婦であれ再会したときの感情の交流、齟齬といったものはストーリーにおけるひとつのクライマックスであり、ある種の情感の高まりを観客に共有させなければならない。その場面で、何度も中断すれば、観客の感情が途切れてしまう危険性がある。『ひまわり』の例は、演出の力技というべきで、下手な演出家がやればどうしようもなくダレてしまうことになる。中断は演出における一種の賭けになるのだが、澤井さんがそれを選択しなかったのは、演出力のせいというよりもさまざまな撮影条件によるものだろう。デ・シーカの力技はむろんソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニという二人の演技者あってのことで、加えるに観客の成熟度にも左右されるだろう。先に述べたTVドラマの例にしても、メディアの属性とも関わっていることで、たとえば相米慎二のような超ロング、ワンシーンワンカット長回しなどはTVでは不可能だといっていい。


 もう二十五年も前になるけれども、その頃やっていた映画雑誌で澤井さんに対談に出てもらったことがある。お相手は、澤井さんと同じく中年になってようやく映画監督デビューを果たした三村晴彦さんで、その第一回監督作品である『天城越え』について、ちょうどこの本『映画の呼吸』と同じように、各シーンを微にいり細にいり検討する、といった対談だった。澤井さんは試写で『天城越え』を何度も見直し、シナリオを手に入れて詳細に分析し、対談の場に臨んだ。澤井さんも三村さんより一足先に監督デビューを果たしたばかりの「新人監督」だったが、当時の若手監督と呼ばれる長谷川和彦柳町光男相米慎二大森一樹らよりずっと年長で、すでに大監督の貫禄さえ漂わせていた。
 澤井さんの、人物や物の出し入れから登場人物の感情表現などの指摘に、三村さんが思わずうなずく場面も少なくなかった。そばで聞いていて、実作者の批評の凄さに圧倒されるばかりだった。ひとつ、強く印象づけられたことがある。『天城越え』は松本清張の原作小説をもとにした映画だが、主人公の回想で始まり、過去の場面の時制が前後するという入り組んだ構成となっている。場面の繋ぎがうまく行かないと観客が戸惑うことになりかねない。その点にかんしては、この『映画の呼吸』でも何度も繰り返し強調されているけれども、そのときもちょっとした繋ぎのほころびを指摘して、澤井さんはこう言われた。「構成はいくら入り組んでいてもいいんです。だけど感情の線は一本すーっと通してやらなければ」。それは主人公の抱く感情の線であると同時に、映画を見る観客の感情の線でもあるのだろう。
 マキノ雅弘の助監督を長年務めた澤井さんと加藤泰の助監督を長年勤めた三村さんとの対談は、マキノ流演出術と加藤流演出術との対照の妙も窺わせてすこぶる興味深いものだった。そうした対談をライブで聴くことのできる贅沢を感じたひと時だったが、鈴木一誌さんも澤井さんにインタビューしながらおそらくは同じ思いを抱いたにちがいない。


映画の呼吸―澤井信一郎の監督作法

映画の呼吸―澤井信一郎の監督作法