猫町異聞


 その頃、わたしは失業中だった。毎日あくせくと働くのがいやになり、独り身の気楽さもあってすっぱりと仕事を辞めた。僅かばかりの蓄えと失業給付をちびちびと費消すれば一年ぐらいは働かずにすむと算段したら会社へ行く気などたちまち失せていた。これで満員電車に乗らなくていいと思うと籠から飛び立つ小鳥のような気分だった。どういう気分か小鳥に確かめたことはないけれども。
 西日の差し込むアパートの一室でひがな一日ゴロゴロしていると、からだが畳にとろけてしまいそうだった。職探しなどする気は毛頭なかった。
 部屋にいるのに厭きると散歩に出かけた。近所の町並みは初めてみる光景のように新鮮だった。勤めていた頃は、早朝家を出て深更に帰宅する毎日で、もう五年も住んでいるのにこの界隈の地理には疎かった。知らない道を選んで歩き、あちこちの路地を野良猫のように探索してまわった。見なれぬ町角をうろつきながら、わたしは萩原朔太郎の「猫町」という小説を思い浮かべたりした。
 小説の語り手は、近所を散歩しているうちに道をまちがえ、知らない往来へ踏み迷ってしまう。「私は夢を見てゐるやうな気がした。それが現実の町ではなくつて、幻燈の幕に映つた、影絵の町のやうに思はれた。」だがそれも一瞬のことで、方向感覚を失ったための錯覚だとわかる。
 わたしの町歩きも、その語り手と同様、一瞬の幻影に身をゆだねる愉悦を求めてのささやかな暇つぶしにほかならなかった。
 商店街を抜け住宅地に足を踏み入れると急に人通りが途絶えた。西部劇に出てくるゴーストタウンさながら辺りはひっそりとして、そのせいか日中なのにフィルターをかけたように薄暗く感じられた。しばらく歩くと小さな空き地があった。なにか大きな建物の跡地なのだろうか、住宅なら優に四、五軒分の広さがあり、整地されないままに雑草が生い繁っていた。
 それはわたしが少年の頃よく遊んだ原っぱに似ていた。わたしの育った町にはそんな空き地がそこかしこに点在していた。わたしたちはそこで缶蹴りをしたり鬼ごっこをしたり三角ベースをしたりして遊んだものだ。
 空き地では子供たちがボール遊びに興じていた。五、六人ずつ二手に分かれ、黒と白のツートーンカラーのボールを蹴りあっていた。それはまるで一匹の小鼠を猫の集団が追いかけ回しているかのようだった。めまぐるしく右へ左へとくるくる逃げ回る小鼠をわたしは目で追いかけた。腕組みをして突っ立ったまましばらく時のたつのも忘れて見とれていた。小鼠は土埃をあげて地を這い、ときに蹴り上げられて宙を舞った。猫たちは、いつでも仕留めることができる獲物を舌なめずりしながらいたぶっていた。
 わたしは見ているだけでは我慢できなくなり、自分でもやってみたくなった。サッカーなら小学生のころ体育の時間にやったことがある。子供たちの敏捷な動きについていける自信はなかったが、一緒に小鼠を追い回したくてからだが疼きだしていた。仲間に入れてもらおうとわたしは子供たちに近づいた。
 「ねえ君たち、おじさんを仲間に入れてくれないか」
 子供たちはわたしの呼びかけが耳に入らないのかいっこうに取り合おうとはしなかった。わたしはかさねて呼びかけた。
 「ねえ――」
 ふいにボールが飛んできて、わたしの下腹部にしたたかにぶつかった。わたしは股間を押さえてギャッと悲鳴を上げた。子供たちはそんなわたしの姿を見て、さもおかしそうに声をあげて笑った。わたしは少し腹が立った。
 「人にボールをぶつけておいて笑うことはないだろう」
 子供たちはわたしの言葉が理解できないかのようになおも笑いつづけた。なかにはわたしを指さして笑い転げる子供もいた。わたしは無性に腹が立ってきた。大人を馬鹿にするにもほどがある。わたしはかれらを怒鳴りつけようとした。
 するとまた、どこからか風を切ってボールが飛んできた。わたしは不器用に身をかわした。あやうく頭にぶつかるところだった。わたしの慌てふためく姿を見て子供たちはまた笑った。今度は数人の子供たちが指さして笑った。わたしは怒りで頬が紅潮するのがわかった。
 「おまえら――」
 脚に鈍い痛みを感じた。向こう臑に当たったボールが跳ね返って転がった。ボールは偶然に当たったのではなく、故意にぶつけようとして蹴られたか投げつけられたかしたのは明白だった。
 わたしはもはや怒る気持ちを失くしていた。こんなところからは一刻も早く立ち去ろう。踵を返そうとしたわたしの背中にボールがめり込んだ。わたしは一瞬息ができなくなってその場に蹲った。背後で子供たちの囃し立てる声がした。子供たちが足音もたてず駆け寄ってきて、よつんばいになったわたしの行く手に立ちふさがった。かれらはチェシャ猫のような笑いを浮かべてわたしを見下ろしていた。
 「そこをどいてくれ。どくんだ」わたしは喘ぎながら叫んだ。
 コの字形に壁に囲まれた空き地の出口を子供たちがバリケードのように塞いでいた。わたしは突然いい知れぬ恐怖に襲われた。子供たちを押しのけて出ていこうとするわたしの顔をめがけて一人の子供がボールを蹴りつけた。それは見事にわたしの額に命中し、目から白い火花が飛び散った。わたしはパニックに襲われて逆方向に向かって駆け出した。子供たちが囃し立てながら一斉にわたしを追いかけた。子供たちの蹴ったボールがわたしの尻や背中に当たると、シュートを決めたときのようにどよめきが起こった。わたしは鼠花火のようにくるくると逃げ回った。足がもつれて転ぶと容赦なくボールの集中攻撃にあった。
 そして奇妙なことに、いつしかわたしは子供たちのいない方向へと右往左往しているわたしを追いかけている自分に気がついた。逃げまわっているのはまぎれもなくわたしだった。わたしは哀れな格好で逃げまどっているわたしを笑いながら追いかけていた。
 疲れ果てもはや逃げる気力を失くしたわたしは両腕で頭を抱えてその場に蹲った。もうどうにでもしてくれといった気分だった。どのくらいたったろうか、ほんの四、五分のようにも、また永遠といえるほどの時がたったような気もする。思考能力を失っていたわたしには、なにもかも一切がさだかではなかった。ふと顔を上げ辺りを見回すと、人の姿はなかった。小鼠をいたぶる猫のようにわたしを追い回していた子供たちはまるで跡形もなくきれいさっぱり消え失せていた。わたしは立ち上がると服の汚れを手ではたき急いでその場から立ち去った。そのままそこにいると、またどこからともなくかれらが現れそうな気がしたからだ。
 ほうほうのていでアパートの部屋に逃げ帰ったわたしは、それからまる一週間というもの外へ出る気がせず、布団にくるまって時を過ごした。買い置きの食料が底をついたため外出はしたものの、住宅街のほうへは、あの空き地のある方向へは足を向ける気にならなかった。


 空き地をこの目で確かめてみようという気になったのは、それから一カ月もたってからのことである。わたしは記憶を頼りに商店街を抜け住宅地を歩きまわった。だが、いくらさがしてもあの空き地は見つからなかった。心のどこかできっと見つからないだろう、いや、見つかってほしくないと望んでいることに、わたしは気づかないわけにはいかなかった。
 「猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。」朔太郎の「猫町」の語り手は「猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集して居る」奇怪な猫町の光景について語っている。そしてかれは「今も尚固く心に信じて居る。……猫の精霊ばかりの住んでる町が、確かに宇宙の或る何所かに、必ず実在して居るにちがひないといふことを。」
 わたしの遭遇した空き地もまた猫町の一種にちがいない。だがわたしの話を誰がいったい信じてくれよう。あれが実際にあった出来事なのかどうか、わたし自身、もはや確信がもてないでいるのだから。