愛ルケと戦メリ

 愛ルケ、と言うんである。愛の流刑地。このカジュアルな略称は、重々しく通俗的なタイトルの気恥ずかしさを軽やかに中和する効用がある。いずれにしても軽薄な感じがすることに違いはないけれども。山田風太郎の「流刑地の猫」ならルケ猫か。
 人名を、たとえばエノケンとか伴淳とか勝新とかと略すことはむかしからよくあるけれど、小説や映画のタイトルなどをこういうふうに略称で呼ぶことはあまりない。小津の『風の中の牝鶏』を風メンだとか黒澤の『デルス・ウザーラ 』をデルウザだとか呼んだりはしない(と思う)。
 愛ルケなどは略してもあまり言葉の節約にならないけれども、タイトルが長いため仕方なく略す場合もあって、『マルキ・ド・サドの演出のもとに シャラントン精神病院患者によって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』は「サド・マラー」ではなく通常「マラー/サド」と表記される。『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』は「博士の異常な愛情」だし、『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』 は「ウディ・アレンのSEXのすべて」だったかと思う。
 いっぽう略称しかない映画というのもあって、『略称 連続射殺魔』がわたしの知る限りで唯一の例。このほど三十五年ぶりに新作『幽閉者―テロリスト』を監督した足立正生の作品である(複数の共同制作とされている)。
 キムタクはキムタクと呼ばれるのを嫌がっているそうだが、エノケンも愛称で呼ばれるのを好まなかったと何かで読んだことがあって、むかし編集に携わっていた映画雑誌で喜劇映画の特集をしたときにエノケンの弟子だった内藤陳さんにインタビューをしたのだけれども気を使って「榎本さんは〜」と言うようにした(陳さんは「榎本のおやじ」と呼んでいた)。故人であっても敬称なしで呼ぶと怒り出す弟子もいるから注意を要する。
 愛称で呼ばれるのは人気のある証拠のようなもので、映画『戦場のメリークリスマス』が公開される際には大島渚監督自ら率先して「戦メリ」と称し、「戦メリと呼んでください」と宣伝に相努めていた。むろんあえて「軽薄」たらんとしてのことである。「戦メリねえ…」と思ったけれど、連呼されるうちにあまり気にならなくなった。大島渚にはそういった「機を見るに敏」というか妙に「柔軟」なところがある。その映画雑誌で「戦メリ」公開にあわせて別冊の特集号をつくったときに長時間インタビューをしたことがあるのだけれど、赤坂の大島渚事務所で監督と向かい合わせで五〜六時間、ほとんどぶっ続けで話を聞いた。大島さんは、大江健三郎の「飼育」を映画化した際、撮影のロケ地でトラブルがあり警察に拘留されたことがあって、拘置所で煙草を喫えないのが苦痛でそのせいでその後禁煙した、とはそのとき聞いた話だけれど、インタビューの間、ずっと煙草を喫えないのが一番の苦痛だった。それはインタビューというより大島渚が自身の半生を語った独演会で、その特集号のタイトル「これでもまだ君は大島渚が好きか !?」は、大島さん自身の発案である。
 俳優は、そのとき旬の人を使うのがいい、というのが大島監督の持論で、戦争映画にデヴィッド・ボウイ坂本龍一ビートたけしを起用するという発想は余人の追随をゆるさない、といっていいだろう。そんなような意味のことを、大島さんの指名で当時あるグラフ雑誌に書いたのだけれど、大島さん自身はその記事を喜んでくれたようだ。
 『戦場のメリークリスマス』は外国との合作映画で、カンヌ映画祭をはじめ多くの映画祭に出品され、大島監督は世界中を旅してジャーナリストたちから数々のインタビューを受けた。そのときの旅行記を書下ろしで出版することになり、本のタイトルをどうするかで頭を悩ませた。それまでの大島渚の著書といえば『魔と残酷の発想』だの『戦後映画・破壊と創造』だの『解体と噴出』だのといった見るからに硬派の評論集ばかりで、こちらも頭をひねってそんなふうなタイトルをいくつか用意して赤坂の事務所に向かった。本のタイトルをどうしましょうかと訊ねたら、大島さんは即座に「『答える!』にしましょう」と言った。唖然とした。たしかに本の中身は多くのインタビューに答えたものだが、「答える!」というタイトルには虚を衝かれた。それが本のタイトルとして適切かどうかということ以前に、そうした発想に驚かされたのであるが、素人俳優を主役に抜擢し、率先して「戦メリ」と称して宣伝し、「これでもまだ君は大島渚が好きか !?」と自ら問う柔軟さに、それは通じるところがあるといえるだろう。いまのところ最後の作品である『御法度』では新人というよりずぶの素人の松田龍平を主役にし、『愛のコリーダ』で助監督を務めた崔洋一近藤勇役に起用するなど、相変わらずの大島調だった。元気になってまた映画を撮ってもらいたいと切に祈っている。
 ところで「流刑地の猫」という小説は金井美恵子のエッセイで知って読みたいと思い、折に触れて探しているのだけれど、まだ見つからない。むろん金井美恵子のことだから、そんな小説などこの世に存在しないという可能性も否定できないのだけれども。