一茎の花――火の雉子、水の梔子(その2)


 前回の「火の雉子、水の梔子」に、藤原龍一郎氏よりコメントをいただいた。<叢書 火の雉子>の『堕ちたる天使』の歌人は、藤原さんのご指摘のとほり栗秋さよ子である。栗秋さよ子の名を記憶してゐる人は、歌人のなかにもさうはゐまいと思はれる。試みにインターネットで検索してみても、<歌葉>の掲示板に荻原裕幸氏の書込みが一件あるのみである。荻原氏が挙げてゐられる栗秋さよ子の歌は次の二首。


 嘴合わす鳩らよりやや罪深く指組みて来つ女同志の
 青年のキスに浄まり来し者に捺す茵陳(いんちん)の苦き唇(「陳」は草冠に「陳」)


 塚本邦雄歌人論集『残花遺珠』に栗秋さよ子論がある。この本は「知られざる名作」の副題があるやうに、人に知られることの寡い歌人たち(加藤將之、常見千香夫、筏井嘉一、館山一子ら『新風十人』や明石海人などの有名歌人も含まれるが)の名歌を顕揚するもので、これ以外に栗秋さよ子について論じた文章を寡聞にして知らない。以下、同書に依り若干の紹介をしておかう。


 栗秋さよ子は昭和三十五年、「短歌研究」の新人賞に推薦として入賞する。推薦一席が横田正義「黴びる指紋」、次席が栗秋の「磔刑の肋」、岸上大作「意志表示」、森淑子「オルゴール」。この短歌研究新人賞は、中井英夫中城ふみ子寺山修司を見出した短歌研究五十首詠を前身とするもので、下つて平成二年には藤原龍一郎氏が「ラジオ・デイズ」で受賞してゐる。
 「磔刑の肋」は、「磔刑の肋美しき影持つと奥歯の痛む夜は思い居り」を含む架刑のイエスを詠んだ一聯の歌。荻原氏掲出の二首は、「吾と少女の髪梳き交じえ編み上ぐる絆互に色を失い」などとともに、ピエール・ルイスの『ビリティスの歌』の本歌取り、「日本版として遜色がない」と塚本は論じる。


 「むしろ「茵陳の苦き唇」と「編み上ぐる絆」の二首の凄じい官能美は、ルイスを超えるだらう。茵陳は例のアプサントの原料となる苦艾(にがよもぎ)の漢名である。「絆」の方は定家の名作「掻きやりしその黒髪のすぢごとに打臥すほどは面影ぞたつ」を髣髴させる。この代表作を有ちつつ、作者は今日まで、つひに再登場することはなかつた。」


 もし『堕ちたる天使』が刊行されてゐたならば、作者の人生にいかほどかの変容をもたらしたであらうか。


 もう一人、<叢書 火の雉子>の本田一揚は、正しくは本田一楊。かれもまた余りひとに知られぬマイナー・ポエトである。塚本邦雄は第一評論集『夕暮の諧調』で、「流觴」「続・流觴」と再度に亙るオマージュをかれに捧げてゐる。ここでもまた同書に依り、聊かの紹介文を録しておかう。


 「今は昔、その旗幟に「新芸術主義」を謳ひ、一部の人々に匿れた宝石のやうな、冷やかな情念の輝きを惜愛された短歌グループがあつた。昭和十五、六年をピークとして全き燃焼をとげ、戦争を境として次第にその熱と光りを喪ひ、今は行方もつまびらかにしない。」(「流觴」)


 その同人誌「青樫」に束の間登場し、「やがて消え去つた抜群の歌人」が本田一楊である。


 一茎の花は日暮れとまぎれゆきわかなくなりぬ手にすくへども
 尼僧語る花さざんくわはしきりなりイタリヤの言葉に散る夕まぐれ
 あをぞらはかぎりしあらぬかなしみのかへりつつちるつばくらもみゆ


 一首目「一茎の花」(「青樫」昭和十五年十月号)の「隔靴掻痒の美学は、まこと彼の本質を暗示してあますところがない」と塚本は断ずる。


 「このはがゆいやうな透明の抒情、は行音の効果をすてがたく、あへて一茎を「ひとくき」と訓じさせる心やさしさ、弱さ、一読一見、あとには何ものこらぬかに思へる。だが、私の心には、かたちもいろもさだかならぬ、この花の幻が、硝子に刷いた雲母のやうに、消えることはなかつた。ヴァレリーのいふ「虚無へ捧げる供物」であり、海水の中の一滴の葡萄酒とは、即ちこの一首のもつはかなさの勁さにほかならぬ。」(「続・流觴」)


 昭和十五年はいふまでもなく合同歌集『新風十人』が八雲書林より刊行された年である。塚本はいふ。


 「佐美雄、佐太郎、哲久、嘉一、史らの独創的な文体は、当時の青年歌人たちのアイドルであり、同時に憎しみの的であつたらう。太平洋戦争に音たててなだれてゆく疾風怒濤の、背水の、歯軋りをまじへた新風の歌声は、しかもなほ昭和短歌史に比類のない栄光をとどめた。せめてこの期に及んで、今日の短歌の典型を記しとどめ、若し生あらば歌ひつぎたいといふ情念は、想像をこえたすさまじさであつたはずである。そしてここに、そのシュトルム・ウント・ドランクのはざまに、風花を散らす如月の風、木犀の花をうかべる神無月のさざなみさながらに、本田一楊らのつつましい営為はあつた。つひに読人不知として忘れ去られるべき運命を負ひ、それゆゑにその儚さを勁さとして、彼らはひたすらに抒情し、無心に奏でたのだ。」(「流觴」)


 この聊かパセティックな揚言は故なきことではない。この一文に続けて念押しするやうに「無名を犠として、歌人の特権をおのが心の中に得たのだ」と書くその「おのが心の中」はまた夫子自身の心中にほかなるまい。昭和十七年、歌誌「木槿」に入会した二十歳の塚本邦雄は、二年後「青樫」の同人となる。かれもまた明日をも知れぬ戦火のなかで「つひに読人不知として忘れ去られるべき運命」を心に刻みつつ、「ひたすらに抒情」するひとりであつたのだ。
 塚本は、本田一楊の「いのちたとへばちりぬるきはも散る花の綺羅しづもりてあらばさやけみ」について、この歌は「その初七のゆゑに完全にうつくしい。にもかかはらず、絶唱と呼ぶにはあまりにも脆く、甘美に過ぎるのは、とりもなほさずこの歌人をも含めた、一群の新風作家の詩精神の幼さであり、方法の決定的な不安定さをものがたるものであらう」と断ずる。塚本は明言しないが、本田の「一茎の花」「花さざんくわ」が齋藤史の『魚歌』(昭和十五年)、就中、「スケルツオ」一聯の、


 夕霧は捲毛(カール)のやうにほぐれ来てえにしだの藪も馬もかなはぬ
 定住の家をもたねば朝に夜にシシリイの薔薇やマジョルカの花


などの影響下にあるのは一目瞭然である。「日本中が焦土と化する夜夜に、燈を低くして、まるで禁書でも盗み見るやうな心地で」塚本もまた『魚歌』を繙いてゐた(塚本「残紅黙示録」、齋藤史全歌集解題)。さうした無名歌人たちの、否、青年たちのひとりが本田一楊であり、ひとりが塚本邦雄であつた。そしてその後のふたりを分かつのは、「黄金律を変革する」といふ勁い意志、詩精神の有無ではなかつたか。「初句の二音の過剰、三句一音の添加、五句一音の欠如等々の、定型詩人以外にはとるにたりぬ修辞学上の改変が、実は当事者のいのちをかけた冒険であること」(「流觴」)の自覚ではなかつたか。
 塚本は本田一楊ら「一群の新風作家」の試行を嘉しつつ、「その文体が真の確立を見ずにつひえ去つた」のは「定型詩への憎しみ」の涸渇ゆゑであると結語する。「短歌詩型の魔は、決して愛のみによつてはわがものとはなし得ぬ摂理を彼らも亦知つてゐたのであらうが」と。

 <叢書 火の雉子>の杜絶によつて栗秋さよ子、本田一楊の歌集は日の目を見ずにおわつたが(本田一楊歌集『空蝉楽』はのちに青樫社より上梓された)、塚本邦雄のいふやうに「彼らが一たび得た幻視者の栄誉は、おそらく今日もどこかで、だれかにうけつがれてゐるにちがひない」。ちなみに双つの叢書に寄せた塚本邦雄の解題は、評論集『稀なる夢』『非在の鴫』などに収録されてゐる。