来嶋靖生――生命の吐息の歌
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小中英之さんについて書き継いできた拙文が機縁で、天草季紅さんから小中さんが執筆したN紙の短歌時評のコピーを送っていただいた。私のあやふやな記憶をたよりに、わざわざ図書館まで出かけて検索されたのである。ありがたいことである。昭和五十二(一九七七)年一月三十一日号から六月二十日号まで、月一回の連載で六回分。三十年ぶりに読み返してみると、あれもこれも記憶の底から甦ってくる。曾宮一念について書かれた文章もたしかにあった。曾宮が会津八一の思い出を書いた「落合秋草堂」についてふれた文章である。読み返して感動を新たにした。
小中さんの時評については天草さんご自身がいずれお書きになるだろう。ここではひとつだけ触れておきたい。四月の時評で小中さんは来嶋靖生歌集『月』を取り上げ、「近来まれなる自省の歌集」であるとし、以下のように続けている。
「階段の光とどかぬひとところ問ひつめられてわが矮(ひく)き影
という歌もあって、「勤務する書房に経営破綻起る」の詞書がついているのだが、この一瞬の「孤立」の影をみずから凝視する把握の方法には凄みさえ感じられる。」
歌集『月』は前年の秋に刊行された、来嶋靖生四十五歳の満を持しての第一歌集である。所属する結社「槻の木」の師、都筑省吾の愛情に充ちた序文が附されている。曰く「歌集『月』の歌が人を打たなかったら、何処に人を打つ歌があろうと思うことである」と。
「槻の木」は、都筑省吾ら窪田空穂に学ぶ早大短歌会のメンバーが創刊した歌誌で、空穂の自撰歌集『槻の木』から命名された。表紙の題簽は秋艸道人、会津八一の揮毫になる*1。
「槻の木」は、「現実生活の反芻としての人事を知性をもって歌え」*2と主張した窪田空穂につらなる、いわゆる空穂系と称される歌風といっていいかと思う。空穂系歌人たちを論じた『窪田空穂以後』*3という著書をもつ来嶋靖生もまた、自ら空穂系を自任する歌人である。一九八八年刊行の『自解100歌選 来嶋靖生』*4のあとがきに次のように記している。
「私は「早大短歌会」以来、短歌は都筑省吾先生に学び、「槻の木」にあって三十数年の歳月を経た。窪田空穂の流れにつながる「槻の木」で育てられた作風は、私自身のささやかな実験や変容の試みにもかかわらず、大きくは変わっていない。生活を基盤とし、現実を直視し、こころのまことを追い求め、人としての本性を遂げんとする、それが歌の正道である、という確信はゆるがない。そして私にとっての美しいもの、私が尊しとするもの、それらもだんだんと固まってきたように思われる。私が短歌の上で追いかけてきたものは、顧みて言えば、引揚げ体験、生活、職場、血縁、風土、人生、思想などという言葉にくくられることどもであろうか。しかし私の歌はこれ限りではない。これからなお変えて行く、変わって行きたい、そういう願いは前にもまして、強い。」
歌集『月』の前掲の歌も職場詠のひとつ。この歌は『自解100歌選』に採られてい、「(昭和)四十三年の五月、思いがけぬ経営上の蹉跌が起こり、河出書房は更正会社の申請を出すに至った」と自注がある。同年、来嶋は企画編集会社日本アートセンター創立に参画し、新潮社の『茶の本』、中央公論社の『李朝の陶磁』、小学館の『茶道聚錦』といった大きな企画を次々と手がける。そのうちの一つが講談社の『昭和萬葉集』で、「早大短歌会」以来の友人で小学館の編集者でもある篠弘は、現代短歌文庫『来嶋靖生歌集』に収録された文章でこう書いている*5。
「講談社の『昭和万葉集』の発刊が難航したさいは、わたしから編集部に彼を紹介した。彼個人の仕事のつもりであったが、しだいに頼まれる量が増えたのであろう。彼が役員であった日本アートセンターの業務として請け負い、ぶじに毎月配本を果たしたものである。その立場を考えた両社への配慮に、来嶋氏らしい誠実な対応ぶりが忘れられない。」
来嶋自身は、『自解100歌選』に次の歌とともに、こう自注している。
「繊(ほそ)き月消なむばかりに光れるをさくら並木の上に見て過ぐ
(前略)この日、私は『昭和万葉集』の編纂作業のことで講談社の菅野匡夫氏に会った。私には身に余る大きな仕事で、震える思いで聞いた。どこまで自分が協力できるかという恐れと、歌詠みとしてこれほど勉強になる機会はない、という興奮とがこもごもにあった。当初は私個人の、休日の仕事とするはずであったが、定期刊行厳守という版元の方針にそうため、私どもの会社で編集作業の一部を手伝うことになった。編集の仕事としても、私自身の歌の上でも、『昭和万葉集』は忘れられない大きな仕事であった。」
その頃N紙を辞めた私は、同紙で短歌時評を担当していた来嶋さんに誘われて『昭和萬葉集』の編集に携わることになった。
2
『昭和萬葉集』は短歌で昭和史を綴る全二十巻(別巻一)に及ぶ壮大な企画で、講談社は膨大な資料を揃えて準備をしていたが、資料を取捨選択して二十巻の本に纏めてゆく詰めの部分で「難航」していたのではないかと思われる。講談社の編集室には大小さまざまな結社誌をコピーし簡易製本した資料が山と積まれていたが、それらから然るべき歌を撰びだしカード化する作業は、刊行を目睫にして未だ整っていないようだった。私は、講談社から借り出した「未来」の束を机に積み上げて歌を撰んではせっせとカードに書き抜いたり、「塔」のバックナンバーを受け取るために京都の永田和宏を訪ねたりしていた。いずれも戦後に創刊された歌誌なので『昭和萬葉集』では第七巻以降ということになるけれども、「塔」のような結社誌が未だ蒐集さえされていないのには驚かせられた。
前掲の来嶋の「さくら並木」の歌は、第二歌集『笛』の「花冷え――大き仕事を請く」の題のもとに並ぶ十首のうちの一首であるが、同歌集にはほかに「歌びと――昭和萬葉集編纂作業」の題で二首収められている。そのうちの一首、
朝(あした)より歌読み続け夜に及び眠りて目覚めまた歌を読む
に見られるように、膨大なカードの束から歌を撰び部立てごとに仕分けしてゆく作業を、来嶋は孤リで日夜孜々と続けていた。それは私には、広大な砂浜に埋れた砂金を探すような気の遠くなる営為に思われた。来嶋は『笛』のあとがきにこう書いている。
「本集の数年間で、私自身が最も多くの時間と力とを費やしたのは『茶の本』(新潮社)と『昭和萬葉集』(講談社)であった。仕事の余得として、前者では伝世する貴重な書画や道具、茶室など名品名席に時折り接することができ、後者では何十万首という歌を短期間に読むことができた。これらは一、二を除いて直接にはほとんど歌の対象とはしなかったが、そこから得たものの大きさは通常の言葉では言い表せない。」
『昭和萬葉集』は昭和史上の大きな出来事に添いながら巻立てが施され、巻頭に時事詠が据えられているために、ともすれば事件を詠んだ歌の集成のように思われがちであるが、一巻のなかで時事詠はそれほどの比重を占めているわけではない。むしろ四季・自然を詠んだ歌、生活・相聞などの人事を詠んだ歌が多くを占めるといっていい。たとえば茂吉なら茂吉の歌集を制作年代別に区分してそれぞれの巻の部立てごとに振り分けたといった趣がある。時事詠にしても、新聞の撰歌欄からも採られているが、いわゆる専門歌人の歌のほうが割合としては多いだろう。そうした現代歌人たちのおよそ半世紀に亙る秀歌のアンソロジーとしてこれほどの規模のものは空前絶後といわねばならない。小説家や学者の詠んだ埋れた歌も丹念に蒐められている。
各巻の月報に連載されている塚本邦雄による前巻の批評を読むのが私の愉しみだった。塚本は空疎な時事詠を弾劾し、自然や恋の部に収められた秀歌を嘉するのが常であった。これは私一己の私的な感想に過ぎないが、来嶋はそうした専門歌人の秀歌をいかに排列するかに心をくだき、一巻ごとに塚本と、いや塚本の批評眼と対決する心構えで詞華集を編んでいたのではないかと思わないでもない。
そうした来嶋の心魂を傾けた『昭和萬葉集』が、いまや揃いで三千円から五千円程度で古書店で購える。一冊なら百円均一で店晒しになっている。これを私は来嶋靖生にとってのこの上ない栄誉であると思う。
3
ともあれ、これは新潮社の『茶の本』の時であろうか、『笛』に「罅――業とする企画の進行、遅々たる日に」の題で十一首収められたうちの三首を掲出する。
帰り来て手に触るるものことごとく愁ひをまとふごとき夜なり
身を沈め湯舟より湯を溢れしむ何ほどのわが人間の量(かさ)
罅一つ走れるからにまがなしく李朝瑠璃壺両(ふた)つ掌に抱く
むろん来嶋とは比ぶべくもないが、私もまた何千何万という歌を読み、読むことによって歌に対する感じ方、考え方になにほどかの変容をきたすことにもなった。それまでは塚本邦雄や春日井建に代表される審美的な歌以外まるで興味を持てなかったが、上掲のような「現実生活の反芻としての人事を知性をもって歌」った歌の佳さもお蔭で少しはわかるようになったということである。
同じく『笛』に収められた「秋空――職場日常」の、
黙しがちに一日終へたり装ひて帰る明るき声に手を振る
日昏れよりわが時はあり椅子ふかく坐りなほして息一つ吐く
お先へと言へば顔あげ笑み浮べまたうつむきて文字を追ふ友
といったなんということもない歌にもしみじみとした情感をさそわれる。小津安二郎の『秋刀魚の味』に出てくる昭和三十年代の丸の内のオフィスを思わせるような光景である。窪田空穂が『わが文学体験』*6で、
「作者の一首の歌とするものは、作者の内部にある一種の気分ともいうべきもので、これは外部の事象より、あるいは内部にあった事象より起こされた感動である。その時の生命の吐息とでもいうべきものである。」
と書く「生命の吐息」のような歌であるといえるだろう。こうした短歌観は短歌のみならず広く詩歌の根幹に関わる問題を孕んでいるが、その問題については稿を改めることとし、ここでは『笛』の巻頭に置かれた歌を引用してとりあえずの結びにしたい。
わがつひに掬(むす)び得ざりし夢に似て清き流れを銀の魚(うを)游ぐ
絶唱というべきか。
- 作者: 来嶋靖生
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