板倉鞆音、そして三好豊一郎、天野忠、大槻鉄男
1
前回、天野忠が板倉鞆音訳のリンゲルナッツ詩集『運河の岸辺』に「詩をつくるこつを教えられた」と語った、と書いた。それを知ってか知らずか、天野忠とリンゲルナッツの親和を手がかりに天野忠の詩を論じているのは三好豊一郎である*1。
「詩集『クラスト氏のいんきな唄』を読んだとき、戦前(といっても第二次大戦の始まるちょっと前)昭和十六年三月発行の、板倉鞆音訳リンゲルナッツ詩集『運河の岸辺』を愛読していた私は、もの(二字傍点)の見方、人間あるいは人間世界への接し方に、似たところのあるのを感じて、板倉鞆音=リンゲルナッツの関係が、天野忠=クラストの関係にもあるのではないか、と思った。同時に、「クラスト氏のこと」という、詩集に付けられた文章がいかにもうまくできすぎているので、眉に唾をつけたい思いでもあった。」
天野忠の詩集『クラスト氏のいんきな唄』は、詩人の山前実治が経営する京都の印刷会社・文童社から昭和三十六年(一九六一)に刊行された。タイプ印刷、百五十部の限定本であった。五年後、これを改題増補し写植オフセットで出したのが『動物園の珍しい動物』で、文童社に勤める印刷職人である詩人の大野新が跋文を書いている。
「クラスト氏のこと」とは、あるとき古本屋で出会ったクラストと名乗る異国の水夫からよれよれの便箋にタイプで打たれた詩を受け取り、それを「ホンヤク(若しこれをしもホンヤクと云えるなら)」したのがこの詩集である、という『クラスト氏のいんきな唄』に附された序文である。二重三重にミスティフィケーションの施されたとぼけたユーモアの漂う文章だが、大野新はその跋文で次のように解説している*2。
「クラスト氏はもういないのだ、というのがこの詩集の枕である。行方不明のまま、もう何十年もたってしまった。憮然と天野さんは禿げあがった頭に掌をおくのである。照れくさそうに、だが、にやにやして。これが天野忠さんの人前でみせる演技である。遠い目をしてみせることよ。(中略)
クラスト氏はもういない。身ぶり手ぶりもユーモラスな語り口で、天野忠さんがまずは見えすいた韜晦をはじめたのは、方便上のいろんな理由があるはずである。(略)私に思いあたるものは、なま(二字傍点)の「晩年」表白にたいする天野さんの羞恥にほかならない。」
三好豊一郎は大野のこの跋文を引いて「なるほど大野氏は、人生の達人・詩の名手である天野さんの急所にふれて身近かな方だな、と思った」と感想を記し、以下のように続ける。
「私には、はっきりクラスト氏の正体が見抜けず眉に唾をつけた程度であったのは、それだけ天野さんの韜晦が堂に入っていたのと、板倉鞆音=リンゲルナッツの関係をすぐ連想してしまったからでもある。眉に唾をつけつつも私はその詩に感心していたので、クラストの正体への疑いにむしろ興ずることができた。天野さんが、天野忠=クラストの関係に興じたのは、敢えて仮構の他人を演ずることで、いっそう冷静に、いっそうやさしく、<生きもの>の運命、<生きること>の悲しみを見つめようとしたからだろうが、水夫・クラスト・詩人は、詩人・リンゲルナッツ・船乗りを思うと、偶然ではないような気がした。」
三好は続けて板倉鞆音訳・リンゲルナッツの「小譚詩」と天野忠の「叫び」の二篇の詩を引用し、「下積みのか弱いものへのセンチメンタルでない同情が、非情への諦観をもって、ここにある」と論じている。
2
三好豊一郎が板倉鞆音=リンゲルナッツと書いているのは、板倉の訳詩がそれだけリンゲルナッツといわば一体化していることの証左ともいえよう。また、リンゲルナッツの、たとえば次のような詩には、三好が天野の詩に見る「<生きもの>の運命、<生きること>の悲しみを見つめよう」とする眼差し、「下積みのか弱いものへのセンチメンタルでない同情」を覗うことができる。
廃 馬 リンゲルナッツ 板倉鞆音訳
一匹の馬があったが 老いぼれて
それゆえに淘汰された
まず彼の皮が剥がれた
あいや これは間違いである
その前に馬は尻っ尾を失ったのだから
馬は重荷をひき 血の汗をながした
馬肉も空腹には美味である
鞭が脆弱な骨を打った
それから馬が斃れた
その死骸からはしかし天馬(ペガサス)が飛びだし
浮かれておならをした
昭和十六年に刊行されたリンゲルナッツ詩集『運河の岸辺』は、一度、古書店で見かけたことがある。日夏耿之介詩集や堀口大學の『月下の一群』などの豪華版の刊行で知られる長谷川巳之吉の第一書房から出たもので、上製・貼函入り、本文は和紙の袋折り、正字正仮名の活字が和紙にくっきりと刻まれた瀟洒な刊本だった。たしか千数百部印刷された初版本で、かなり高価な値札が附いていた。高価といっても誰某の初版本とは桁が違い、無理すれば手の届かなくもない値段であったが、すでに国書刊行会版を所持していたので後ろ髪を引かれながら購わずに仕舞った。
それはさておき。天野忠が『クラスト氏のいんきな唄』を刊行したのは一九六一年、五十二歳のときで、自筆の年譜に「この粗末なタイプ印刷の詩集を出したことで、長い精神の鬱血状態から放たれたようなほどよい解放感があった」としるしている*3。「長い精神の鬱血状態」が腎臓病による数年間にわたる闘病からきたものか、それとも「このころ(一九五八年)から愚かなまでに深く「年齢」というものにこだわるようになった」(同、自筆年譜)と書く老いの自覚によるものか、あるいはもっと別の理由によるものなのか定かでない。いずれにせよ、この詩集が天野にひとつの転機を与えたことは慥かであり、それだけに天野の愛着もひとしおで、自装になる改題増補版『動物園の珍しい動物』を刊行したのちも「この書に未練たっぷりで未だに更なる改題増補版を出したい気持ちがある」(同)と書いているほどである。『クラスト氏のいんきな唄』は、『重たい手』(一九五四年)、『単純な生活』(五八年)と続いた「いささか暗い自己省察からのみごとな転換」(大野新*4)であり、大野新によれば、この増補版『動物園の珍しい動物』を読んだ三島由紀夫は朗読してレコードに吹き込みたいとまで惚れ込んだという*5。
天野忠はむろん京都では疾うから知られた詩人で、先に挙げた『重たい手』、『単純な生活』で二度続けてH氏賞の候補にもなっているが(受賞したのは、黒田三郎『ひとりの女に』、吉岡実『僧侶』。次の『クラスト氏のいんきな唄』は、今更H氏賞でもないということで候補にも挙がらなかったが、天野自身は「私は高見順賞くらい呉れてもよさそうなもんやと思てましたけど」と玉置保巳に語っている*6)、全国的な知名度を得たのは、一九七四年に出した準全詩集ともいうべき大部の『天野忠詩集』に対し、当時朝日新聞で文藝時評を担当していた丸谷才一が「天野忠詩集は、一九七四年の最高の詩集である。もいちど言う。これほどの詩人を今まで知らなかったことをわたしは恥じた」*7と書き、洛陽の紙価を高めて以来のことである。
3
ドイツ文学者の玉置保巳が愛知大学で板倉鞆音と親交を結んだことは前回記したが、同様に愛知大学で板倉と親しく交わった一人に、アンドレ・ブルトンやセリーヌの翻訳で知られるフランス文学者の大槻鉄男がいる。大槻も玉置と同じく詩をよくし、「VIKING」の同人として同誌上に詩や散文を発表し、詩集『爪長のかうもり』を持つ。
同じ京都大学出身の山田稔や杉本秀太郎と親しく、四十八歳の若さで亡くなった後、彼らの尽力で詩と散文を蒐めた大槻鉄男作品集『樹木幻想』が刊行された*8。A五判貼函入四百頁の大部の書物で、帯に冨士正晴が文章を寄せている。追悼文の名手・山田稔のエッセイのなかでも、大槻の思い出を綴った文章はことに哀切きわまるもので、一読忘れ難い印象を残す。山田の『特別な一日』『生命の酒樽』などに収められたエッセイを読まなければ『樹木幻想』を手に取ることはなかったにちがいない。同書より、帯にも引かれている大槻の短い詩を一篇掲げる。
ある河には
ある河にはある河のわけがあって
朱色に染まって流れてゆく
私には私のわけがあって
橋のうえにたたずみ
昔のひとのように
朱色の流れをみつめている
さて、大槻鉄男の板倉鞆音との親交は、同書に収録された「川・浮子・小鳥」に覗うことができる。これは板倉自身の詩集『聴濤館』の書評で、「VIKING」に発表されたもの。
大槻は、まず「黄昏」という詩を引く。これは河原で釣りをしている男のモノローグで、幽明境にいる男の場景があたかも無声映画の一場面のように描かれた静謐な一篇である。
黄 昏
俺はどこかの水辺に坐って
じっと浮子(うき)を見つめているようだった
――人は死ぬとき 走馬燈のように
過去を思い浮べるというが
本当なのだろうか
向うの堤を玩具の電車がとおる
――パパ お弁当
――ありがとう
でも パパはもう
何も食べなくてもよくなったのだよ
どこかでかすかに
俺を呼んでいるようであったが
それも今は聞えなくなった
――この静けさは何であろうか
あたり一面 水色に暮れて
今はもう何も見えなくなった
なかほどにある一行、「向うの堤を玩具の電車がとおる」が怖ろしいまでの効果をあげている。大槻はこの詩について、
「これは充実した生の瞬間ではないか。そして死はその裏側に、生の一部のように、作者によっていつくしまれている。幻の子供たちが玩具の電車に乗ってお弁当を持ってきてくれると、「俺」は子供たちに「――ありがとう でも パパはもう 何も食べなくてもよくなったのだよ」と言う。
このような、生の一部となってしまっているような死の観念は、どのような経過を経て作者のなかに生れたのか。(中略)戦後に大患を煩われ生死の境をさまよわれたという板倉さんが、その闘病の生活のなかから得られた観念なのであろうかと、想像するばかりである。」
と書いている。
鉄橋を通過する電車を遠くの河原から眺めていると、ときに玩具の電車に見えたりすることがある。そうした誰にでもある月並な経験を幽明境の場景にさりげなく導入して屹立した詩語に変貌させてみせる板倉の手腕に感歎する。ここは大槻の言うように「幻の子供たちが玩具の電車に乗ってお弁当を持ってきてくれる」のでなく、遠くの電車を眺めているとふいに背後から子供の「パパ お弁当」という声がする、という場景と取りたい。
「生の一部となってしまっているような死の観念」という大槻の言葉に、このところずっと書き継いでいた小中英之のことを思う。
大槻は、釣好き、小鳥好きの板倉の、釣り、小鳥にまつわる詩を紹介する。なかから「目白」という短い詩を一篇掲げる。
目 白
目白の籠は糞(ふん)の山だ
一日 餌をやるのを忘れたら
昨日の糞をくって糞をした
もう一日ほっておいたら
その糞をくって
やっぱり糞をするだろう
大槻は、自分なら最終行を「やっぱり糞をした」とするだろう、そしてさらに「そしてある日/糞となった目白は/糞をして/糞だけが残った」と三聯を附け加えるだろう。それは「しつっこく、どうだいといった様子がありありと見えるではないか」「おまけに目白を殺している」。それにくらべて板倉のは「君子のそっ気なさ、淡きこと水の若(ごと)し」と感想を書きつけている。
この板倉の詩に見えるユーモアは、リンゲルナッツの「鰐」や「真田虫」などの短詩に通じるものだ。天野忠は木山捷平にふれたエッセイでこう書いている。
「ユーモアというものは、文学の中で、一番栄養価の高いものなのであろう」*9
- 作者: 天野忠
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*1:三好豊一郎「whyの味」、現代詩文庫85『天野忠詩集』思潮社、一九八六年
*2:ここでは、大野新が自らの跋文を転載しながら執筆した「天野忠の世界」より引用する。これはその時点における準全詩集ともいうべき『天野忠詩集』(永井出版企画、一九七四年)に附された解説である。大野新『沙漠の椅子』編集工房ノア、一九七七年、所収
*4:大野新「あたたかい灰のような天野忠のむかし」、日本現代詩文庫11『天野忠詩集』土曜美術社、一九八三年
*5:大野新「楽屋噺」、前出・現代詩文庫85『天野忠詩集』。大野は別の場所で、三島が「朗読してレコーディングしようと企図したものは、あの詩集において「私」をみごとに隠蔽した芸に由来すると私には思える」と書いている。『続天野忠詩集』一九八六年、編集工房ノア、所収の「付記」による。