板倉鞆音、そして玉置保巳、天野忠

――「僕がしばしばどんなに感動させられるか知っておいでか」



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 前々回、板倉鞆音訳のケストナーの詩「雨の十一月」に打たれた山田稔が、今でもケストナー詩集が入手可能かどうか、旧知のドイツ文学者、玉置保巳に手紙で問い合わせた、と書いた。山田が玉置に尋ねたのは、むろんケストナーだからということもあるけれど、玉置が板倉と旧知の仲であることを知ってのうえであった。「玉置さんは以前、愛知大学で教えていたころ、やはりそこの教授で詩誌「アルファ」の同人でもあった板倉鞆音と親しくなり、結婚の媒酌人までつとめてもらったほどの間柄である」と山田は書いている*1
 玉置保巳は板倉との出会いを「ゲーテの頭」*2という長いエッセイでこう書いている。


 「昭和三十五年春に、愛知大学に急に欠員が生じて、独文科主任教授の大山定一氏の計らいで、私が急遽、赴任することになった。そしてこの大学で、詩人の丸山薫氏と、リンゲルナッツの名訳で知られる板倉鞆音氏の知遇を得た。板倉氏は、大山教授の京大独文科の二年後輩で、愛知大学独文科の主任教授であった。」


 玉置が板倉の紹介で、岡崎市の詩人、黒部節子の主宰する同人誌「アルファ」に参加するのは、それから十三年後、愛知大学から同志社女子大学に転任する昭和四十八年のことである。
 京都に移り住んだ四年後、玉置は京都在住の詩人、天野忠から「一度、遊びに来られませんか」という葉書をもらう。黒部から詩誌「アルファ」の寄贈を受けていた天野は、玉置の書く詩やエッセイに関心を持っていたのだという。こうして始まった天野との交遊を記した長篇エッセイ「ゲーテの頭」は、ちょうどその五年後、同じように始まった天野との交遊を描いて名著の誉れ高い山田稔の『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』*3と姉妹版のように似通っている。二人して天野宅を訪れたときの記述など、双方から打明け話を同時に聞くようで興趣が尽きない。

 板倉鞆音は「アルファ」に詩を発表していたが、昭和六十年(一九八五)の「病床にて」を最後に、訳詩以外の自分の詩は発表しなかった、と玉置は書いている*4。板倉が亡くなったのは一九九〇年のことだから、あるいは詩作への意欲の衰えを自覚してのことかもしれない。板倉は、一九八九年の秋に「アルファ」などに発表した訳詩を蒐めた『ぼくが生きるに必要なもの ドイツ現代詩抄』*5を刊行し、明けて一月十九日にこの世を去る。玉置が「突然ご自分の詩を書くことをやめてしまわれたように、今度は不意に生きることをやめてしまわれたのだ」と哀悼し、『ぼくが生きるに必要なもの』から引用している板倉の訳詩をここにも掲げておこう。


    半ばなる離別      ペーター・ヘルトリング 板倉鞆音


 出ておゆき
 ただ、ぼくが生きるに必要なものは
 残しておいてくれ――
 朝の
 美しい不安
 昼の
 ものうい蔭
 そして明るい夜
 ――には、ぼく
 待っている


   2

 玉置保巳板倉鞆音に最後に会ったのは一九八八年夏の「アルファ」の例会で、合評のさなかに身を横たえるほど「先生の体の衰えは痛々しいほどであった」という。それかあらぬか、その一年余り後に刊行された『ぼくが生きるに必要なもの』のあとがきはそっけないもので、その代りとでもいうように入沢康夫の「跋文に代えて」という文章が巻末に附されている。
 入沢は「太平洋戦争が始まる直前の一九四一年に刊行された板倉鞆音氏訳のリンゲルナッツ詩集『運河の岸辺』(第一書房刊)に、私が、とある古書店の店先でめぐり会ったのは、敗戦後三、四年たった頃であったと思う」と筆を起こし、詩を書き始めてしばらく経ったころの一種のスランプ状態にあった私に、この詩集は「詩とは、つまり、こういうことなのだ」と得心させた「ひとつの大きな啓示であった」と続け、第一詩集『倖せ それとも不倖せ』に板倉の訳詩集の「恩恵」は歴然とあらわれていると附記し、「傘寿を越えられた訳者」の健勝を願って擱筆している。
 入沢のいう「一種のスランプ状態」を入沢自身の言葉で補足すると、「「詩が、思ったこと、感じたことをありのまま定着・表現する《てだて》だ」という神話に何処となく「信頼のできなさ」を感じ」たのが原因である、ということになる。戦後まもなくといえば「荒地」派とプロレタリア詩グループが詩壇の中心となっていたが、敗戦を中学生で迎えた入沢は戦争を青年時にくぐりぬけてきた鮎川信夫田村隆一ら年長世代の詩に違和を感じたということなのだろうか。あるいは「感じたことをありのまま」を単純に字義通り受け取るべきだろうか(そうした「神話」はいまも学校教育の現場で信じられているのかもしれない)。
 いずれにせよ入沢が述懐するように、『倖せ それとも不倖せ』に収録された、たとえば「夜」「北風の街で」「或る夏の夜の出来事」といったコント風の詩には、板倉の訳詩集の「恩恵」が覗えるような気がしないでもない。入沢のみならず当時の詩人たちに、板倉鞆音訳『運河の岸辺』は思いのほか大きな影響を与えたようである。天野忠もそのひとりであった。
 リンゲルナッツのことを調べていて、天野忠に電話で訊ねたときのことを玉置保巳が書いている*6


 「話は当然のことだが名訳と言われた板倉鞆音訳『運河の岸辺』に及んだ。天野さんは感にたえぬように、
  「あの訳詩集が出て、ほんまに助かりました。わたしは、リンゲルナッツて、どういう人か知らんし、ドイツ語も読めん。訳を読んで感心したのやから、板倉さんの訳文に感じ入ったということになるのやろけど、詩をつくるこつを教えられたと思いました。たちまち読者の心をとらえてしまう、気軽で、面白くて、それでいて深みのある、理屈でなくて、しかも、うがったところのある詩、わしもこんな詩を作ってみたいという食欲をそそられました。リンゲルナッツの影響を受けた詩人言うたら、村野四郎や私の他に、大阪の山村順がそうでしたな。あの人は熱狂的なリンゲルナッツのファンやった。(以下略)」


 入沢康夫は、「恩恵」がリンゲルナッツからもたらされたものか、それとも訳者からもたらされたものか最初は判断がつかなかったが、「再読三読するうちに、その大半は、訳者のものであると感じるようになり、この感じは、いわゆる名訳者として名高い人々の仕事にいろいろ接するに及んでますます強固なものとなっていった」、そして、訳者のエスプリという点では「堀口大學氏よりも上位に、私は板倉氏を置く」と書いている。
 おそらく天野忠もまた板倉鞆音の訳文に、その文体に、影響を受けたのだろう。天野の言う「気軽で、面白くて、それでいて深みのある、理屈でなくて、しかも、うがったところのある詩」とは、まさに自作自注の言葉であるかのようだ。
 玉置は板倉の訳したドイツの詩人、ギュンター・アイヒのある詩について「ふかい無常観をたたえたこの詩のもつ雰囲気を、板倉鞆音の訳文は見事に再現していて、間然するところがない。詩の翻訳が原詩に極限にまで近づくことの出来た稀有な実例といえよう」としるしている*7。原詩を凌駕したとは言わないまでも、板倉の訳詩には、原詩と板倉との合作といいたいほど板倉の比類のないスタイルが刻印されている。
 第一書房刊『運河の岸辺』のまえがきを再録した『動物園の麒麟 リンゲルナッツ抄』が国書刊行会のクラテール叢書の一冊として刊行されたのは一九八八年。板倉が身罷る二年前のことである。


    Mに     ヨアヒム・リンゲルナッツ 板倉鞆音


 僕とともに僕の道をゆくお前
 どのような睫毛の動きも見のがさず
 僕の悪さを忍び わかってくれるお前
 僕がしばしばどんなに感動させられるか知っておいでか

 僕が死んだとて悲しむにはあたらない
 僕の愛は死後につづき
 見なれぬ着物をきてお前に出あい
 お前を祝福するだろう

 達者で、よくお笑い
 幸福にくらしておくれ


 

動物園の麒麟―リンゲルナッツ抄 (クラテール叢書)

動物園の麒麟―リンゲルナッツ抄 (クラテール叢書)

 

*1:山田稔「詩人の贈物」、『八十二歳のガールフレンド』編集工房ノア、二〇〇五年

*2:玉置保巳ゲーテの頭」、『ゲーテの頭』編集工房ノア、一九九四年

*3:編集工房ノア、二〇〇〇年

*4:玉置保巳「ぼくが生きるに必要なもの」、前出『ゲーテの頭』

*5:書肆山田、一九八九年十月二十日初版刊行

*6:玉置保巳ゲーテの頭」、前出『ゲーテの頭』

*7:玉置保巳「ギュンター・アイヒのことなど」、前出『ゲーテの頭』