来嶋靖生、そして藤田三男

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 前回、触れられなかったエピソードを一つ。来嶋靖生小学館発行の『探訪日本の陶芸』の編集に携わっていたときのことである。
 月報に掲載するため立原正秋と林屋晴三の対談を都内のホテルで行なった。両氏ともに和食が好みであることは承知していたが、拠所ない理由でフランス料理にした。そして、対談が終了したあと、別れ際に立原は来嶋にこう言ったという。「御馳走になった上で言うのは悪いけど、料理、まずかったねぇ」。来嶋は「全身から血の気がひく思いがした」と述懐する。そして――


 「その三日ばかりあと、立原氏から突然電話をいただいた。「角川『短歌』の九月号見ました。あなた歌作るんですね。これだから油断がならん。また話しましょう」と明るい声で言われた。私はますます恐縮した。しばらくたって、担当者が立原氏のお宅へ伺ったとき、来嶋の歌の話が出たらしい。間接に聞いた言葉ではあるが、その言葉は忘れられない。」


 どういう言葉であったか、来嶋は書いていない。だが、おそらく来嶋の歌を称賛した言葉であったにちがいない。立原正秋の死を追悼した歌にそのエピソードが詠み込まれている。


 人伝(ひとづて)にたまひし言葉あたたかく埋火となりわが胸に生く


 「埋火」は立原の最後の短篇集の標題でもある。これは『現代短歌入門 自解100歌選 来嶋靖生集』*1に来嶋自身の伝えるところで、集中、私のもっとも好きな挿話である。編集者としての己と歌人としての己とを峻別した来嶋さんの人となりを覗うことのできるいい話である。


   2

 私は二年足らずで『昭和萬葉集』の仕事を離れ、映画雑誌の創刊に携わることになった。その後、その雑誌から離れフリーランスの編集者になったときにも、来嶋さんにはなにくれとお世話になった。中央公論社の『地名俳句歳時記』の資料蒐集の仕事や、小学館の日本写真全集の編集の仕事、飯塚書店の作歌入門書の項目執筆の仕事等々、数え上げれば切りがない。編集者としての私の恩人といっていい。
 世話して戴いた仕事のひとつに、来嶋さんの師都筑省吾の著書の校正があった。『二神唱和』という初期歌謡を論じた二冊合本貼函入の大著で、版元は河出書房新社だったが編集は木挽社という編集プロダクションが行なっていた。
 木挽社は、早大短歌会、河出書房を通じての来嶋さんの友人、同僚であった藤田三男が起こした会社で、「新潮日本文学アルバム」「新潮古典文学アルバム」や小学館の「群像 日本の作家」といったシリーズの編集を手がけて著名な編集会社である。
 藤田は、河出書房倒産の際に河出に残り、河出書房新社で編集者として数々の文芸書を手がけたが、ブックデザイナー榛地和としても知る人ぞ知る存在である。自らが装本した書籍から撰んだ五十冊のカラー写真とその本・著者にまつわる文章で構成した著書『榛地和装本*2は、文藝編集者の文壇回顧録としても一級の面白さである。座右に置いて、折りにふれ何度も読み返す一冊である。
 榛地和は、三島由紀夫の『英霊の聲』『サド侯爵夫人』、江藤淳の『成熟と喪失』、山崎正和の『鴎外 闘う家長』、吉田健一の『金沢』、足立巻一の『やちまた』、そして高橋和巳全集、横光利一全集、和田芳恵全集など、日本文学史に残る数多の名作の装本を手がけた。前出の『二神唱和』や来嶋靖生の『森のふくろう 柳田国男の短歌』も榛地和の装本になる。『榛地和装本』のなかから私のとくに好きなエピソードを一つだけ紹介しよう。


   3

 作家古山高麗雄が編集長をしていた「季刊藝術」に掲載された和田芳恵の短篇「厄落し」を読んだ藤田三男は、あるパーティで会った和田に短篇集の出版を打診する。その後、丸谷才一*3を訪ねた藤田が「厄落し」の話をすると、丸谷は「接木の台」が秀作であると力説した。藤田は「厄落し」「接木の台」のほかに、十数篇の作品の切抜きを和田から借りて同僚の編集者久米勲に手渡した。そして――


 「久米さんの目次案を見ながら、「どうだい?」と問うと、作家に対して無類に寛大なこの編集者は、やや当惑したように、にやりとした。
 私はすぐに読み、正直びっくりした。「接木の台」「厄落し」と他の作品との落差。手だれの退廃というしかない、しかしきっちりとした短篇。のちに『和田芳恵短篇全集』を編集したとき、「記憶の底」一篇だけを残し、他はすべて割愛した。そのときの和田さんの「ご自由に」の口の下での、憮然とした表情が忘れられない。」


 編集者の慧眼を示す挿話である。短篇集『接木の台』の作品の「ばらつき」は、平野謙もまた「作品をもっと厳選すべきであった」と藤田に指摘したが、平野は読売文学賞の選考委員会の席上で、作品の「ばらつき」を指摘したうえで授賞を強く推したという。弱点を認めたうえでなおかつ強く推されると反対しにくいものである。『接木の台』は読売文学賞を見事受賞した。藤田は「いかにも平野謙流だなと思った」と感想を述べている。
 三島由紀夫は『英霊の聲』の装丁の出来栄えを喜び、記念に贈るネクタイを買いに藤田を伴って出かけたという。藤田の伝える三島の「吉行淳之介の『暗室』は今業平の物語になったことが決定的にだめだ」「日本の文壇はこれから丹羽文雄舟橋聖一の時代になる。そのときの文壇は最低だ」といった寸言が興味深い。藤田は三島由紀夫が自決した際に、次のような歌を詠んでいる*4


 面伏せてわれを責めゐしそのかみの青き眉根をいまも忘れず
 己が身を真摯一個の過激派の少年と化し死に給ひたり
 愚痴めきてつぶやきかけしひと言の重き憂ひをさらに知り得ず 


 木挽社の『二神唱和』の校正に携わってから十数年後、ふとしたことで藤田さんに再会することになった。三年ほど前のことである。私の編集する本に必要な図版を木挽社から借りようと連絡を取ると、藤田さんはすでに木挽社を解散されていた。そしていまは、ゆまに書房で「塚本邦雄全集」や「編年体大正文学全集」を手がけられているという。一度会いましょうということで、私はゆまに書房を訪ねた。それは私の勤める出版社から歩いて三分ほどのところにあった。


榛地和装本

榛地和装本

 

*1:『現代短歌入門 自解100歌選 来嶋靖生集』牧羊社、一九八八年

*2:『榛地和装本河出書房新社、一九九八年。再会した際に藤田さんに恵投された。

*3:丸谷の『彼方へ』や『笹まくら』限定版の装本も藤田=榛地和の手になるもの

*4:『出版人の萬葉集日本エディタースクール出版部、一九九六年。編集に携わったメンバーに来嶋靖生がいる。