永田和宏


 Nという書評紙では、文藝時評のほかに短歌、現代詩、同人誌の時評も月に一度掲載していた。掲載は五面の文学欄でなく出版情報を扱う二面だったが、原稿は文学欄の編集者が担当することになっていた。私が文学欄を担当することになったときに短歌時評を執筆していたのは歌人永田和宏だった。いまは京都大学の再生医科学研究所で教授を務めているが、その頃は東京のある企業に勤めるサラリーマンだった。私は学生の頃から現代短歌に関心を持ち、永田の第一歌集『メビウスの地平』も愛読していた。


 きみに会う以前のぼくに会いたくて海へのバスにゆられていたり
 あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年


このような清新な叙情の底流する永田の歌は、私のような短歌好きだけでなく若い歌人たちをも惹きつけてやまないものだった。永田に会うのを私は楽しみにしていた。
 待ち合わせ場所の喫茶店に現れた永田和宏は、柔らかな関西訛りで喋る長身の爽やかな青年だった。今はどうか知らないが、当時は結社に参加している実作者以外で短歌に関心を持っている者などそう多くはいなかったと思う。私が珍しく短歌好きであること、同じく関西出身であること、齢もそう離れていないこと、などから初対面にもかかわらず話は弾んだ。
 当時、現代短歌に関心をもつ若者はほとんどと言っていいほど塚本邦雄のファンだった。永田和宏京都大学の学生の頃、のちに夫人となる河野裕子らと「幻想派」という短歌同人誌をつくり、塚本邦雄の歌について仲間たちと日夜議論を戦わせていたという。「幻想派」のメンバーのひとり、田中富夫が二〇〇四年になって上梓した第一歌集『曠野の柘榴』の栞に永田はこう記している。


「京都で、学生を中心とした同人誌「幻想派」が創刊されたのは昭和四十二年、私が学部学生の二回生(なぜか京都では、何年生と言わずに何回生と呼ぶ)のときだった。その頃、学生短歌会と、結社誌と、そして同人誌にほぼ同時に入会した私は、生活のほぼすべてが短歌を中心にまわっていた。折から、同人誌「幻想派」の創刊準備会で、今に続く恋人に巡りあったことが、いっそう歌にのめり込ませる原因でもあっただろうか。(略)
「幻想派」が出発してからというもの、私たちは週に二度はどこかで集まって、歌会をし、そしてその流れのなかで歌について口角泡を飛ばせて果てしない議論を試みていた。誰かの下宿に流れ込んで、朝まで酒を飲みながら議論をする。五人いれば、一升瓶が五本は空くといった態の飲み方であった。幼い、しかし熱い議論であった」

 
六〇年代後半から七〇年代にかけての学生たちの熱気が伝わってくる文章である。今の学生たちはどうなのだろうか。ともあれ、河野裕子がこの歌集の帯に「七十年安保前夜の熱い時代、夜っぴいて議論した「幻想派」の仲間たち。その中でも最も難解な歌を作っていた田中トミさんが、孫の歌を作ることになろうなど、当時の誰が予想しただろう。彼の三十年に及ぶキャリアは、そのまま現代短歌の辿った道筋ともいえよう」と書いているように、この『曠野の柘榴』には初期歌篇から数えると三十年以上に及ぶ期間の歌が収録されているのだが、初期の歌から一首引いておこう。


 世界は宥されてあらむに炎天の舌に巻かれて死にたる蝶々


いわゆる前衛短歌運動のオルガナイザーであった深作光貞の「レボ律」に出詠された一九七〇年の作品。発想と文体、語句の斡旋に塚本邦雄の影響がうかがえる。ちなみにこの歌集の版元である青磁社は、永田和宏の子息が創業した京都の歌集専門の出版社である。


 ところで、私が最初に手にした塚本邦雄の歌集が『星餐図』(七一年刊)であったか『青き菊の主題』(七三年刊)であったか今ではさだかでない。あるいは三一書房の現代短歌体系の、岡井隆と葛原妙子と塚本邦雄の三人の歌集が収録された一巻(七二年刊)であったかもしれない。いずれにせよ七二年前後に私もまた塚本邦雄を通じて現代短歌を知ることになったのであったが、塚本の『詞華榮頌』(七三年刊)という小さな書物は短歌の世界へのチチェローネとして大いに役立った。
 塚本が『星餐図』の跋文に「一巻の歌集とは、少くとも私にとつては、単なる記録、伝達の目的などをはるかに超えた次元で、一首一首の内包する美を選び抜いた印刷もしくは手書文字によつて可能な限り顕示し、しかもそれを綜合網羅して完璧な装ひの中に封ずる、ある意味では美術品たるべきであつた」(原文、漢字は正字)と記しているように、『星餐図』や『青き菊の主題』は一頁一首組、布装、貼函入りの贅を尽くした見事な造本で、それだけに極めて高価であったのに対し、『詞華榮頌』は百頁余の叢書の一冊で学生にも手の届く廉価な書物であった。この本によって、私は坪野哲久、滝沢亘、小野茂樹、浜田到、清原日出夫、福島泰樹といった歌人たちを知ることになった。それは前衛短歌運動と呼ばれる現代短歌史における一つのエポックを追認することでもあったが、その頃は塚本の駆使する煌やかなレトリックや思いがけないイメージの衝突――ロートレアモンのいう「手術台上のミシンと蝙蝠傘の出会い」にひたすら目を奪われていた。
 『詞華榮頌』に収録された「Blacksmith頌」という一文で塚本は、ブラッドベリ、フィニ、コリア、ボーモント、エリンといった海外の作家の名前を列挙したのちにこう書いている。「その傑作のいくつかのもつ鮮やかな切味は、短歌も以て他山の石とする必要があろう」。私もまた塚本の次のような短歌に、シュールレアリスム絵画やいわゆる幻想小説の持つ「一瞬の眩暈」を求めていたのである。


 乳房その他に溺れてわれら存(あ)る夜をすなはち立ちてねむれり馬は   (『水銀伝説』)
 少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの円駈けぬけられぬ       (『日本人霊歌』)


こうした短歌の見方が従来の、たとえば実相観入を旨とするアララギ派などの短歌観といかに隔たったものであったかは言うを俟たない。『詞華榮頌』には佐藤佐太郎についての評論も収録されていたのだが、佐太郎や土屋文明(あるいは茂吉でさえ)らの短歌に最初に接していたら、こうまで短歌に惹かれることはなかったにちがいない。塚本邦雄についてはいずれまた書く機会もあるだろう。話を戻すと――


 永田和宏に二度目に会ったときだったかその後だったか、私は白玉書房から出ていた『塚本邦雄歌集』を拝借できないかと永田に頼んだ。塚本の初期歌集はすでに稀覯本で、前述の現代短歌体系に『緑色研究』完本とその他の五歌集(『水葬物語』『装飾楽句』『日本人霊歌』『水銀伝説』『感幻楽』)の抜粋が収録されているのみで『塚本邦雄歌集』以外にその全貌を知る手立てがなかったが、当の『塚本邦雄歌集』もまた入手困難な幻の歌集であった。私は永田に借りた『塚本邦雄歌集』をコピーして、一冊ずつ異なった色画用紙の表紙を附けて題簽を貼り、五冊の私家版歌集に仕立て上げた。永田の『塚本邦雄歌集』には、好きな歌に◯や◎印、あるいは傍線などが引かれていた。『装飾楽句』の、


 高熱の遠き闇にて噴水の芯の青年像濡れどほし


の下には永田の筆跡で「チックショー!」と書き込まれていた。

 私は短歌時評の原稿を受け取るために月に一度永田と会った。永田の所属していた短歌結社「塔」の夭折歌人、坂田博義の歌を好きだと告げると、塔発行所から出ていた『坂田博義歌集』を恵与してくれた。


 薄雪の降りし街路にアセチレンなげきのごとく灯し蟹売る  
 霧ふきて日昏れんとする屋上に茫沱たり吾が心の府    


坂田は一九三七年生れ、立命館大学に学び、結婚して一年も経ぬうちに自宅で縊死した。享年二十四だった。

 永田和宏と初めて会った一年後ぐらいの歳晩だったろうか、私は東京からの帰省ついでに当時付き合っていた女友達と京都で遊び、夜、京都に引っ越していた永田の家にふたりで押しかけて一晩泊めてもらった(むろん電話で承諾を得ての上ではあったが)。若気の至りとはいえ、その程度の無礼は赦してくれる間柄だと私は一人合点していたのだろう。永田にとっては迷惑に違いなかったろうが、この突然の闖入者を夫人の河野裕子ともども快く歓待してくれた。私は永田の歌と同様、いやそれ以上に河野裕子の次のような瑞々しい相聞歌を好んでいた。


 逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと
 たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
                    (『森のやうに獣のやうに』)   


 思い起こすと赤面するほかない暴挙だが、あとになって、暴挙というのもやっておくものだ、と思わないでもなかった。勝手な言い草だが、私にはいまもかけがえのない思い出となっている。そのとき朝食の膳を一緒に囲んだ幼女は、父の勤める大学で研究者の道を歩み、第一歌集『日輪』で現代歌人協会賞を受賞する新進歌人となった。永田和宏とは数年後、私がN紙を辞めてフリーランスで『昭和萬葉集』の編集に携わっていたときに再会することになったが、私の大事にしていた塚本邦雄の間奏歌集『青帝集』を持参して謹呈したのも、このときの暴挙のせめてもの罪滅ぼしのつもりであった。


 聊か話が先走ってしまった。時間を戻して続けると――
 短歌時評は半年ごとに筆者が交替することになっていた。永田和宏の担当が最終月に近づいた頃、次の時評担当者は誰がいいだろうかと永田に相談した。永田は、小中英之がいい、と言った。小中の歌は雑誌「短歌」で読んだ記憶があったが、どういう歌集があるかは知らなかった。今度、福島泰樹の歌集の出版記念の集まりがあるから、そこで小中を紹介しよう、と永田は言った。福島は二冊の歌集、『転調哀傷歌』『風に献ず』を国文社から同時に刊行したばかりだった。私は会場である小さな料理屋へ赴いた。ごく内輪の会だったのだろう、広めの和室に料理を前に十数名が座っていた。正面の席に福島泰樹、隣に中上健次がいた。永田はすぐ近くにいた。私が永田に挨拶をすると、永田は隣に座っている男を紹介した。それが小中英之だった。
                               (敬称略)

風位―永田和宏歌集 (塔21世紀叢書 (第40篇))

風位―永田和宏歌集 (塔21世紀叢書 (第40篇))