林達夫

 あれはベルクソン『笑い』の改版が出た年だったから一九七六年の暮れということになる。
 前年の秋、大学を出て就職した会社を半年で辞めてぶらぶらしていた私は、お誂え向きに編集者を募集していたNという書評新聞に職を得て、翌年、つまり一九七六年の一月から編集者として勤めはじめていた。N紙の募集は編集長と編集者一名の退社にともなう欠員補充で、私ともう一人が採用されたのだったが、辞めた編集長の替わりに新たに編集長に就任したのは、いまでは文藝評論家として知られるSという男だった。
 N紙はブランケット判(一般紙と同じ判型)八頁の週刊新聞で、トップの一面が特集の企画記事、二面が出版情報、三面が海外情報、四面〜六面がそれぞれノンフィクション、文学書、学術書の書評、七面が企画頁、八面が映画演劇美術の批評頁に割り当てられてい、八人の編集者が一人一面ずつ担当することになっていた。編集長は一面を担当し、新入りの私は六面の学術欄を半年間担当したのち五面の文学欄に移動した。
 一面の特集はといえば、話題の新刊の著者にインタビューをしたり文藝評論家や小説家が執筆したりするものだったが、どういう内容にするかはたいてい編集長が独断で決めていた。新年号は二週合併の増頁が習いで、内容も通常の書評などのほかに正月に相応しいネームヴァリューのある作家や学者にエッセイを依頼したりしていた(私は中野重治に短いエッセイを依頼した)。
 編集長のSが、七七年新年号の一面に白羽の矢を立てたのは、岩波文庫の『笑い』の改版で従来の訳文に斧鉞を加え、新たな訳注を大幅に書き加えて話題になっていた林達夫であった。新年号の一面に登場するに不足はない。というより、果たしてあの林達夫が登場してくれるのかどうか私にはおおいに疑わしかった。数年前に平凡社から刊行された林達夫著作集の月報に掲載された山口瞳の文章が強く印象に残っていたからだ。
 「林先生は『書かざる執筆者』だった。『絶対に書かない人』だった」と山口瞳は書いている。鎌倉アカデミア林達夫に教わり心酔していた山口瞳は、サントリーに入社し宣伝部の「洋酒天国」というPR誌に配属されるや、原稿依頼のために林のもとへほとんど「日参」した。だが、林は決して首を縦に振らなかったという。とりわけ印象に強く残っていたのは、次のくだりである。


 「あるとき、私は、サントリー皇室献上用の市販していないところのウイスキーを先生のところへ持っていった。原稿がほしいからである。また、会社へは、今度は必ず林先生の文章をいただくからと言って、特別な、数の少ないウイスキーを出させたのである。
 このときも駄目だった。
 しばらく経って、林先生に、
 『いつか君から貰ったウイスキーはとてもうまかったよ』
 と言われたときにも、涙が出そうになった。」
              (林達夫著作集第5巻、付録・研究ノート、平凡社


 Sもまた林達夫がそう簡単に原稿を書いてくれると思ってはいなかったにちがいない。そこで搦め手からのつもりで、『笑い』についてインタビューをしたいとSは林達夫にもちかけた。すると林は「インタビューは断るが、まあ一度話に来なさい」と答えたという。三木清や戸坂潤に縁の深かった書評新聞の若い編集者と話をするのも一興と思ったのかもしれない。断られて元々のつもりで頼んだらまんざら脈がないわけでもなさそうだ。そう思ったのだろう、Sは私に同行しないかと誘ってきた。学生の頃から林達夫のファンであった私は一も二もなく同意した。私たちは勇んで林が当時自分のオフィスのようにしていた平凡社へ出かけていった。

 たしか平凡社のロビーの一郭だったと思う。林達夫は微笑みながらゆっくりと私たちの前に姿を現わした。「これがあの林達夫か」。花田清輝が一目置き、大江健三郎が畏怖した、あの林達夫。『歴史の暮方』のあの伝説的な学者がいま目の前にいる。私たちは林に鄭重に謝辞を述べ、おもむろにSが話しかけた。私は鞄に潜ませていたテープレコーダーのスイッチを林に気づかれないようにそっと押した。

 一時間ぐらい話しただろうか。のちにインタビューした久野収の身振り手振りをまじえた朗らかで饒舌な話しぶりとは対照的に、訥訥とした穏やかな話しぶりだった。「声低く語れ」と書いた林達夫にふさわしい佇まいだったように思う。
 私は数日かけてインタビューを原稿に起こした。四百字で十数枚の原稿になったはずだ。むろん林に無断で掲載するわけにはゆかない。Sは原稿を林のもとに送り掲載の許可を求めた。林は、原稿はよく纏まっているが掲載はまかりならん、と言った。原稿はあえなく没になった。私は山口瞳の文章を思い起こし、これが林達夫だと思った。Sは新年号の企画をもう一度あらたに考えなければならなくなった。

 没になった原稿もインタビューテープも今は残っていない。あのとき林達夫が語った内容も、そしてSがあらたに企画した記事が何であったのかも、今はもう記憶にない。あの冬の日の午後、たしかに林達夫と会い、林の語る言葉に耳を傾けた、という事実のみが残っている。だがそれも私の記憶のなかにあるというだけで、はたしてそれが事実であったかどうかも、もはやさだかではない。


【追い書き】
 『笑い』に附された「ベルクソン以後――改版へのあとがき」は、『岩波講座哲学4 歴史の哲学』(一九六九年)に寄稿した「精神史――一つの方法序説」(『林達夫著作集1』所収)以降、林達夫が公に著した唯一の文章である。一九八四年四月二十五日、林達夫鵠沼の自宅で八十七歳の生涯を閉じた。